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親鸞の仏教史観 第3講-6 (8/16)

それはなるほど仏教の歴史の上におきまして、例えば仏滅後におきましては部派時代、すなわち二十部等の小乗仏教、教団分裂の時代というものがあって、そこになんら統一というものがなかった。けれどもあの分裂は誰が分裂しているかというと、分裂し相争っているものは坊さんたちである。ただ僧侶が分裂しているのであります。今日宗教界がやかましいやかましいというのは、坊さんがやかましい、やかましいのは坊さんだけ、今も昔も変わらざりけり。いや何某寺がどうだ、何某宗がどうだ、いや何某教がどうだ、それは教師とか牧師とか僧侶とか、そういう者が争っているのでありまして、そういう者を無視するというと一般民衆は天下泰平である。これは昔も今も同じことであります。

今をもって昔を知り、昔をもって今を知るべし。いつでも同じことである。真理は変わらないというがいつもそのとおりである。摩訶提婆(まかだいば)という一人の坊さんが擾乱(じょうらん)のもとを播いたというように記されているのでありますが、なるほどそうでありましょう。あれはみな坊さんの喧嘩であります。名は教理によっているけれども実は坊さんの勢力争い、権力の争奪である。そういうことに迷ってはなりません。われわれは小乗二十部の争いというものはいかにも純正な教理というものから分裂したものだ、戒律の問題とか何とかいうものから分裂したものだ、こう言っているけれども、畢竟感情の問題、名利の問題。これは昔も今も同じこと。これは昔の人間は偉かった、今の人間は不都合、そういうわけでない。昔の人間も人間、今の人間も人間、人間に変わりない、同じことである。

要するに摩訶提婆という何か偉大なる少し変わり者が出てくると、すぐに坊さんたちは彼奴は言うことはなるほど随分面白いけれどもあの人物はそもそも不品行な人間、こういう具合に吝(けち)をつける。その人物が不品行であろうが何であろうが、その言うこと真理であるならば真理である。また現在その人間が本当に真面目であるならば、何も過去の古傷を探さんでもよいわけです。けれども昔も今も一人何か偉い人間が出るというと古傷を探す。どうも困ったことであります。けれども、そういう困ったことは、どこにでもあるものだから、たいがい昔というものもどんなものであるかということは、私は自分の常識をもって推測することができる。

(親鸞の仏教史観 第3講より)