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親鸞の仏教史観 第3講-5 (8/15)

親鸞の仏教史観、これを簡単に申しますというと、親鸞によれば親鸞自身まで二千年、仏教二千年の歴史、今日ではいわゆる三千年の歴史、この仏教の二千年ないし三千年の歴史、それの根幹は何であるか。それは『大無量寿経』である。親鸞によれば仏教史の根幹は『大無量寿経』である。仏教の歴史は『大無量寿経』流伝(るでん)の歴史である、三千年の仏教歴史は『大無量寿経』の流伝史である。『大無量寿経』を根幹としての仏の道、仏道というものが歩み歩んだ歴史的展開、すなわち仏道というものが歩を進めたものである。その道が歩むことによってそこに人類が救われたのである。人類が自覚し、また人類が救済されたのである。また人類が解脱出離したのである。

仏道が歴史的に展開し歴史的に歩み、仏道が歴史的に展開することによって、あるいは仏道史を大地として、畢竟の依拠として、それにおいて人類衆生が如是(かくのごとく)に生まれ、またそれにおいて衆生が如是(かくのごとく)に死んだのである。そこから一切衆生が満足して生まれ出で、一切衆生がその中に安んじて死んで行ったのである。仏道の歴史を母胎とし、また仏道の歴史を墓場として、それにおいて呱々の声を挙げ、それにおいて最後の遺言をして死に得たのである。

そういうふうに親鸞は考えたというよりは、そういう客観的事実を親鸞が承認したのである。承認せずにおれなかったのである。承認せしめられたのである。かくのごとく親鸞は聞いたのである。如是我聞である。私はそういうことを感ぜざるを得ないのであります。

されば、昨日申しましたように、八万の法門蔵は百花爛漫として仏教史上を飾っております。けれどもその百花爛漫つるこの仏教史上の花は、それは『大無量寿経』を根幹として時々に栄え、また『大無量寿経』を根幹として所々に咲き乱れているのであります。常に新しいもろもろの花は永遠にますます盛んに、八万の法門蔵は栄えるだろう。それはその根幹に『大無量寿経』というものがあるからである。『大無量寿経』が流れている。『大無量寿経』が一貫している。こういう具合に親鸞は認めて、その事実を親鸞は信じて疑わなかったのである。こういうように私は申すのであります。

(親鸞の仏教史観 第3講より)