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親鸞の仏教史観 第3講-4 (8/14)

私は常識主義ですから、なるほど単に現に伝来せる大般若思想というものを整理したり、あるいは華厳思想というものをまとめて整理したり、無量寿仏思想というものを整理するということは、六百年なり八百年後に整理したということはうかがわれる。しかしそれ全体を、無より有を創作したものだということは、断じて諾(うべな)うことができないのであります。自分は常識者であるから諾うことができないのである。そういう神秘主義は諾われないのであります。それは、おそらく大乗経典の内容をいかに整理したか、まとめて整理したということでありましょう。だから現存の『大無量寿経』の中にも前後の文字が混乱しているというようなところがないわけでもないし、間違った思想がはいりこんできた、そういうことがまったくないわけでもなかろうと思います。しかし、そういうことは今ここに言う必要はないのである。

何しろああいう大乗経典の内容というものは、おそらく釈尊以前よりの伝説でなければならぬのであります。そういう遠い深い伝説を背景として、その中から釈尊が、ゆかしくもまた勇しくも天上天下唯我独尊と、産声を挙げてくだされたのである。そういう伝説を離れては天上天下唯我独尊ということは、後世(こうせ)の作りごとか詩人の形容詞かに過ぎないのであります。けれども、私はそれが釈尊の背景、大乗仏教にあるところのあの釈尊の本生譚(ほんじょうだん)というものは、釈尊の深い背景内面である、釈尊をして釈尊たらしめるところの根源的背景である、かかる深い広大無辺な光というものの中から釈尊が誕生せられた、そういう伝説伝統の中から釈尊が誕生せられた、こういう時に初めて、釈尊が生まれると同時に天上天下唯我独尊と叫ばれたということも、私には文字のままにすなおに受け取ることができる。われわれ常識者はなにか不可思議な、なにか妙な神秘主義のようなものを捨てて、極めて明るい心をもって、釈尊が天上天下唯我独尊ということばと共に生まれたのである。こういうことをすなおに受け取ることができるのであります。私はこの経典に書いてありますことをすなおに受け取ることができるということは、そういうことの意義でなかろうか。こういう具合に思うのであります。これらのことは、昨日長くいろいろ話したことをもう一遍考え直し、見直してみるとだいたいそういうことになるように思います。

こういうような立場から、法蔵菩薩の物語、西方浄土というような問題にも、昨日少し触れて話しました、西方浄土ということばは言わないけれども、そういうことの原理について話をしたと思うのであります。

(親鸞の仏教史観 第3講より)