表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

親鸞の仏教史観 第3講-3 (8/13)

『法華経』は仏滅後何百年に何処(どこ)何処あたりに説かれたものである、何かの寓意を誰か比喩的に創作したものである。『大無量寿経』というものは仏滅後それからまた幾らか以前に、象徴的にそういうものが誰かによって創作されたものである。さらにさかのぼって『華厳経』、あれは第一に『大般若経』というものが創作されて、それに次いで『華厳経』というものが創作せられた。みなそれぞれ誰か創作したものである。ああこれは何と驚くべきことでありませんか。そういうものが現に存在してあるものだから、何びとが創作したものだと、具体的なる結果から抽象して原因らしいものを考えて誰かが創作したものに違いない。創作しないものが現にあるはずがないから、必ず誰かが創作したものに違いないと言うだけであって、いったいああいう深広(じんこう)なる大智慧海が勝手に創作されるものかされないものか、いったい今日の人々がそういうことを考えられるか考えられないか、そういうことを根本的に反省してみたらどうか、これが問題。善財童子のあの物語だけでもあれだけのことをいったいどうして考えられるものか、ああいうことを考える人があるとしたならば、それはどんな広大勝解(しょうげ)の人でありますか。

それはお前のような凡人は、どうせそういう能力がないのだからそう思うだろう、俺はそうは思わん、ああそうですか、と私は言って沈黙します。もうそういう人と語る必要がない。ああそうですかと言うよりほかない。驚きあきれるよりほかありません。

これはたとえまた誰人かがそういうものを創造したとて、それをただ五十年か百年の間にこれこそ釈尊のお説きなされた真実の大乗経典だと言っても、人が信ずるものか信ぜぬものか、常識の判断がつくべきでないか。それは、なるほどすでにそういう立派な内容が久しい以前より伝説せられ民衆の信認するものがあって、ただそれの秩序を整えて、とにかくいろいろと乱れて矛盾していったものを整理して、ある一定のところまで完成した、そういうことが創造だということであるならばそれは正しい。それは肯定できる。しかし、その一切の内容までもある一人とか二人とか、その人々が創作した、そういうことは私には承認できない。承認したくても私の常識にはできない。それは超常識の学者ならば承認なさるであろうけれども、われわれ平凡な常識者には承認できないのであります。

(親鸞の仏教史観 第3講より)