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親鸞の仏教史観 第3講-2 (8/12)

もろもろの経典の中に釈尊の本生、釈尊の前生(ぜんしょう)というものについていろいろさまざまのことが書きつらねられている。それは何を意味するのか。それは単なる主観的観念であるか。単なる想像であるか、単なる概念であるか、そういう一種の単なる人間的要求であるのか。この問題に触れることなく、それらの伝説を無批判に自己の小主観によって、ただちに個人の単なる主観的要求であると独断するのは、要するに一つの説明である。ただ与えられた事実についての一つの説明に過ぎないのであって、事実の事実たるゆえんの証明にはならない。いかに巧(たく)みに事実を積聚し説明したって、説明は遂に事実ではないのであります。事実をして事実たらしめる客観的証明ということによらなくして、それは客観的事実であるということはないのである。説明は畢竟主観の範囲を超えることはできないというようなことを話したと思い出すのであります。

広大無辺な『華厳経』の法界、深遠(じんのん)不可思議なる『般若経』の般若の境界、久遠の闇を遍照するところの『法華経』の本門開顕、また平等一如の法界より無縁平等の大慈悲を垂れたまう『大無量寿経』の法蔵菩薩の本願成就の物語、あれらは単なる孤立せる物語や寓話であろうか。

あの地涌(じゆう)菩薩の『法華経』の話は単純なる物語であろうか。三千大千世界の大地が六種に振動して、大地が俄(にわか)に裂けてその黒闇の地底からして無量無数の荒くれ男が、大地を割って躍り涌き出でた。その涌き出でたそれらの人々の放つところの光明というものは、いまだかつて見たことのない荘厳なるしかも新しい菩薩たちが地の底から俄に一時に涌き出てきた。いまだかつて見たことのない英気溌刺たる若者どもが躍り出てきた。いままでは文殊とか普賢とか観音とか勢至とかいうような長老たち、年老い徳高く自ら尊び門閥を誇っておりました、従来、もろもろの経典の会座(えざ)において久しく常に上首として高き門閥を誇っていたところの弥勒や文殊や普賢や観音や勢至や、それらの長老はまったくその光を失った。それらの人々の数には限りがある。しかるに新しく生まれて現れ来たところの、何等の氏もなく、何等の祖先の誇り、何等の語るべき伝統もない若き菩薩たち、いわゆる荒くれ男、野蛮人、自然人そういうような尺寸の布をさえ纏(まと)わぬ赤裸々たる若者どもが、ぞろぞろと渦の巻くように涌いて出た。

これは単なる物語であるか。ああいうことを単なる昔の人の一夕物語だと考える人があるでありましょうか。ああいう物語は何か知らんけれども一種の観念界、そういうものを描いたものだ、そんな風にすましておられる人間が今日あるか。しかり、現にあり、滔々(とうとう)としてある。これは現代の不思議である。

(親鸞の仏教史観 第3講より)