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親鸞の仏教史観 第3講-1 (8/11)

昨日、親鸞の浄土真宗というものは、要するに親鸞の感得したる仏教史観であるということをだいたいお話しいたしました。それでこの仏教の歴史は、もちろん釈尊をもって仏教の教主とすることは申すまでもないことであります。けれども、それはあたかも日本の歴史が神武天皇の即位をもって日本の紀元を決めていると同じことであって、わが民族祖先の歩みというものは決して神武天皇に始まったのではない。むしろ神武天皇の即位以前、すなわち神武天皇の背景となるところ、それは空間的にもまた時間的にも測り知ることのできない長遠広大の背景もっている。すなわち神代という深い背景をもっている。この歴史以前の長い深い背景をもって、その深い遠い長遠無際の自然生活時代の伝統を背景として、神武天皇の建国の大業がふみだされた。そこに日本建国の歴史というものの真実の意義がある。すなわち万世不易天壌とともに窮まりないところのこの日本というものの根源というものは、まさしく神武創業以前の神代にある。

そういうものを一つの例証としまして、親鸞によって観れば、仏教三千年あるいは二千年の歴史というものには、仏教の教主たるところの釈尊の背景には、時間的にも空間的にも測り知ることのできないところの深広無辺なる背景の源泉があるということを、昨日話をしたと思うのであります。

したがって、この大乗仏教というようなものは、いわゆる根本仏教、あるいは小乗仏教、そういうものから分々段々に発展して、そうしてあるいは理論的に、あるいは理想的に、また神秘的に、いろいろの要求からして、大乗仏教というものが発展し成立した、小乗仏教から大乗仏教が発展したものだ、発展したものだという事実をしいて否定するのでない。ただ、いわゆる発展ということは、いかなる意義においてそういう発展というものが成立するものであるか。ただ発展したものだというだけで尽きている。こういう具合に考えているような仏教歴史、そういう仏教史というものは一つの唯物論的仏教史、それは唯物論的仏教史観という原理を予定して、そうしてそういうことをすでに確実にして、疑うべからざるものと決めているのでないか、ということを申しました。

それは一種の事実であろう。いわゆる断片的積聚的(しゃくじゅうてき)なる唯物論的事実、唯物史観の事実であろう。けれども、唯物史観的仏教はことばをかえて言えば分段生死の仏教、分々段々、きれぎれの事実をもっともらしく寄せ集めて、断片的単純なるものから積聚的複雑なものをだんだん寄せ集めて上手に並べることがいわゆる仏教史というもので、それで仏教なる体験的事実を説明し尽くしたものであるとするならば、それは単なる仏教の形骸(けいがい)の説明であって、仏教の本質の証明では断然ない。外的説明と内的証明というものを、ここにはっきりと区別しなければならないのである、というようなことを話したと思うのであります。

(親鸞の仏教史観 第3講より)