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親鸞の仏教史観 第2講-4 (8/10)

もとより釈尊の自覚の光景につきましては、われらごとき者が容易に言うことはできないのでありますけれども、われわれはそのことにつきましては、なおもっと明らかにしなければならないのであります。が、きょうは何だかはなはだ漠然たることを言って要領を得ない、やはり夢物語のようなことを申したのでありますけれども、この仏教史、釈尊をして釈尊たらしめるところのその根源根拠、そこに仏教の根というものがある。その根が深くして仏教の将来の幹亭々(ていてい)として空に限りなくそびえているし、そうして枝も葉も花も百花爛漫として年と共に月と共に栄えいくということは、その根源が釈尊の仏教茫洋(ぼうよう)たる釈尊以前というものにあるのでなかろうか。釈尊以前と申しましたけれども、ここに私が以前というのはいわゆる以前ということではないのであります。釈尊の自覚の以前でありまして、自覚しない以前、頭で考えた以前ではないのでありまして、釈尊の自覚の事実としての以前であります。

そういうように観(み)てくる時になると、二千年の仏教史というものもまったく違った天地というものが開けてくるのでなかろうか。今、金子さんのお話になりました分段生死(ぶんだんしょうじ)の言葉を思い出すと、この頃多くの人の考えている歴史観は分段生死の歴史観であります。しからばすなわち今や仏教は分段生死を受けている。いわゆる華厳・天台が出ると華・天の分野である。その次には禅宗の熱が出ると本来無東西。本来無東西と言っている人間が、やはりどうかするというと方角が善い悪いと言って、西日が部屋へはいる暑くて困る困ると言う弱い人間が、本来無東西とは何事である。太陽とにらめっこができる、それくらいの大見識をもっていたら本来無東西と言われるけれども、太陽を見つめると眼が潰(つぶ)れるような人間が本来無東西とは何事である。そうかというと、西方願生(がんしょう)するなどと言って、どこか先の西方を念願する。いったいそんなことが本当に念ぜられる力があったら太陽とにらめっこができるはずでないかと思います。

そんなことを言うと、あるいはみなさんの中に感情を害して、何だ不都合なことを言う、と腹を立てる方もあるかも知れないが、腹を立ててもよい。こういうことはもっと虚心坦懐に道理を明らかにしていかなければならないということを私は言っているのであります。

今日の仏教史というものがまことに貧弱な分段生死を受けている。今の仏教は、本当に仏教らしく分段生死を超えて、分段生死の仏教史から変易生死(へんやくしょうじ)の仏教史というものに転回する道がないか、こういうことが問題なのであります。これは、今、金子さんのお話を聴聞したものだからそういうことを考えたのであります。これは金子さんからのご回向。要するに今の仏教史は分段生死の仏教、仏教そのものが分段生死を受けている。そういう分段生死から進んで本当の変易生死というものを受ける世界がないであろうか。そういうところの本当の仏教史というものがないであろうか。

つまり、私は思いますのに、親鸞のこの仏教史観というものは、今少しそういうような境地を明らかにしていく、こういうことでなかろうか、と思います。

要領を得ないようなことを言いましたが、どうもじぶんでは要領を得ているのだけれども、あまりに要領を得過ぎて、もうちゃんと結論が先に出ているから要領を得ないようになるのであります。きょうはこれだけにしておきます。

(親鸞の仏教史観 第二講終わり)