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親鸞の仏教史観 第2講-3 (8/9)

けれども、かかる広大無辺の大聖業はかかる短日月をもってしてできるべきものか、できるべからざるものかということを、われらは思いを空∧むな∨しうして考えてみなくてはならないことでなかろうか。人々は在るものだからできた、できたからあるのだ、こう言うでありましょう。けれども、できるというにはどうしてそういうものができたであろうか。ただ現に在るからできたと言うのでは解答にならないのでありまして、できたということには、それはどうしてできたのであるか。どうしてできたかということは、それはいかなる意義をもち、いかなる内容をもつかということが、そこに初めて明らかになるであろうと思うのであります。

この大乗仏教というものを生かすその基礎はどこにあるか、土台はどこにあるか。土台は土、その清浄(しょうじょう)純粋の客観的土は、浄土。その大乗仏教を生かすところの浄土はどこにあるか。それはちゃんと経典を見れば釈尊の本生譚(ほんじょうだん)として知られる。だからして釈迦の本生ということは単なる一つの観念とか、単なる主観的感情とか、単なる世俗のいわゆる象徴ではない。正しき意義の象徴ということはいったいどういうことか。私の考えによりますと、象徴という言葉は、それを現代の人はどういう具合に使っているか、ずいぶん乱雑に使われているようである。けれどもこの象徴という言葉は、大乗仏教の経典の言葉にさかのぼって見ると、荘厳ということ。浄土を荘厳する、このお浄土を荘厳するということは、つまり過去の釈迦の背景をもって往く先を荘厳する。また往く先をもって、過去に照らされた未来をもってさらに過去を荘厳する。未来において過去の相(すがた)を写し、また過去において未来の相を写す。この過去と未来とを現在というものにおいて統一する。こういうことでないであろうか。

私は、自分には研究とか思索とか体験とか、そういうようなことは知らないのであります。そういうことは自分は何もない。ただあるものは如是(かくのごとき)の人間があるだけである。これが研究であるか、これが思索であるか知らない。ただこういうものがある。こういうものが現在ある。現在あるのはただこれだけである。われらはかくのごとく貧弱な現在であるけれども、これには久遠の限りなき祖先の歩みというものを後にして、そうしていまだ生まれざる子々孫々というものを動かすべき使命をもっている。われらの前途はただ光である。われらの前には限りなき光があり、われらの後には限りなき命がある。

限りなき命に裏づけられ、限りなき命に発遣(はっけん)せられて、限りなき光に招喚せられている。発遣せられるものは限りなき寿命である。招喚せられるものは限りなき光である。光に招喚せられ、命に発遣せられる。命に自分は遣わされて限りなき光に招喚される。われらの前途は光でありわれらの背後は命である。

(親鸞の仏教史観 第2講より)