表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

親鸞の仏教史観 第2講-2 (8/8)

この釈尊の自覚の現在の境地を憶念しますと、その未来は空(くう)の空なるものである。いわゆる空・無相・無願の世界であります。釈尊が自覚の現在に立って、自分の向かう前途を見れば、ただ空の空なるものである。久遠尽未来際の末まで空の空なるものである。無相であり畢竟空(ひっきょうくう)である。その境地は空であり無相であり無願である。しかしながら、静かに釈尊を生み出したところの釈尊の過去の母胎、釈尊の内面的背景、それはすなわち諸仏菩薩の積功累徳(しゃっくるいどく)の体験の世界である。そこには、祖先の生命を捨てた、しかして祖先の真実永久の生命を得きたったところの体験、祖先の証験し来たったところの無量広大の本願の境地というものがある。この限りなき、数知らぬところの祖先の体験、それを釈尊は畢竟依の大地として、光台として、その上に釈尊は立ちたもうたのであります。しかして彼は、この空にして無相にして無願なる世界を荘厳して、それを具体化しそれを象徴化し、かくのごとくにして彼は千年万年の後までもこれを懸記予言(けんきよげん)したもうた。

懸記予言するということは頭で考えることではありません。予言するということは着々として歩くことである。予言の底には必然の世界がある。しかしながら、この歩き来たった世界は偶然の世界である。この背景の世界は必然の世界ではない。しかし、その照らすところの未来、そこに描き出すところの世界は必然の世界である。釈尊が頭で描き出したというのでなく、釈尊の感得せられた実践、仏教は歴史的実践である。仏道の歴史にこそ真実の歩みがある。常恒に今現在説法(こんげんざいせっぽう)する。単なる八十年の一人間としての釈尊は、それがいかに偉大であっても人間である。

したがって、釈迦が『華厳経』を作り出し、あるいはもろもろの大乗経典を作り出す、八十年というけれども、それから三十五年引くというと、たった四十五年である。三十年を引いたとしても残るところは五十年である。わずか五十年のあいだにああいうものを作り出すということ、それは想像することすらできない。これは現代仏教学者とその所見を一にするところである。しかし、仮に釈尊が千年二千年の命をのばしても、あの広大無辺なる諸大乗経を作り出すことはおそらくできないことではなかろうか、と私は思うのであります。それで、私は現代仏教学者が大乗経典というものを、ただ釈迦出世以後わずか数百年とかいう、そういう短日月の間に創造されたというが、それはそういうものが発展してくる、そういうものが生まれてくる、そういうものが作り上げられてくる、そういうことはただできるものだと独断的に予定しているものである、そう言うよりほかはないのである。

(親鸞の仏教史観 第2講より)