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親鸞の仏教史観 第2講-1 (8/7)

率直に申せば仏教の根源、仏教は釈尊によって創(はじ)められたものでないのでありまして、何か知らないけれども釈尊というものは一つの従来ありましたところの伝説の中に呱々(ここ)の声をあげさせられたのでないでしょうか。伝説には民族の久しい間の実践実行の根拠がある。また同時に、それは民族の実践実行の底にもっているところの要求または感情である。その長き深き伝説、そういう深遠(じんのん)なるところの伝説伝統の中に生じて、その伝説伝統を選択統一して、そうして未来世に生まれたわれら一切衆生の歩むべき方針を明らかにせられた。それがつまり釈尊の証、釈尊の出世の位地というようなものでなかろうか、と私は思うのであります。

仏教の真理は釈尊によって創め作られたのでなしに、仏教の真理は始めなく終わりなし。釈尊以前に、釈尊の出世するとしないとにかかわらず、仏教の真理は実に変わりがない。それの種々の観点から象徴化されたる無量雑多の伝説、ただこの混然としておりましたところの伝説、この仏道象徴荘厳の伝説、それに正しい選択と方向とを与えた、それら全体を締めくくって、そうしてさらに新しく行くべきところの方向を与えられた、そこに釈尊の深広無底(じんこうむてい)の自証というものがある。

そういう釈尊の自証というものは、例えば四諦(したい)とか十二因縁(いんねん)とかいうもので、いったい釈尊がそういうようなことをおっしゃったのであるか。釈尊がそういうことをおっしゃったという証拠もあるわけではないでありましょう。もちろん釈尊自ら筆を執って書かれたことはなかったし、また釈尊の直弟子たちが筆を執って書いたという証拠があるわけでもなし、釈尊ご入滅の後に初めて釈尊の説として伝説されているに過ぎないのであります。だからして、それらの例えば四諦とか十二因縁とか六波羅蜜(ろっぱらみつ)、そういう形式というものは、単にある不可思議の境地を釈尊の滅後、弟子たちが古き伝統伝説によって分析再成したのであって、単にこれのみによって仏に成る道というものが出てくるのでないでありましょう。それらが本当に仏道に相応し、仏道の方法としての菩薩道であるためには、それらの法門を裏づけるところの釈尊の背景、背景の伝統というものに照らされ摂取せられて、そうして初めて、何かわからないけれども一つの生命、そういうものがそこにあるのでないか、そのように私は思うのであります。

したがって、大乗仏教というものは釈尊以後に発展生起(しょうき)した仏教ではありません。釈尊以後に発展した、理論化形而上化され、あるいは理想化神秘化せられましたものではなくて、釈尊の一つの自証というものを、釈尊の自証をして本当に自証たらしめるところのその背景、時間的にまた空間的に広大無辺の背景として初めて仏道がある。私は仏土とか浄土とかいうのは、この背景を指したのだと思う。かくして浄土の問題も、少なくともその解決の端緒を得るというものである。

(親鸞の仏教史観 第2講より)