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親鸞の仏教史観 第一講-12 (8/6)

大乗仏教の中の釈尊の本生譚というものにつきましては、それは『般若経』でありましても、あるいは『華厳経』なんかでもさまざまの伝説があります。われわれはそういう伝説はすべて仏滅後に創作されたものとして承認できるであろうか。いったいそういう広大無辺な物語がわずかに仏滅後数百年間にできたものであるか、あるいはそれは幾万年かの仏以前からの伝統というものがあってのことであるか。これはわれわれ深く思いを静めて、真実に仏道を求める人はもちろんのこと、たとえ仏教史の単なる学問研究、いわゆる唯物的理知的研究をするところの人でありましても、そういうことを唯物的に考えてみてもまた多少の価値がないということはなかろうと思うのであります。あえて物としても、相当高価な価値をもっている物だと思うのであります。あの広大無辺な華厳三昧の境界というものが、まさしく現今、存するごとき一つの『華厳経』という成立経典として結集せられたということは、それはなるほど仏滅後どれだけの年代を経てまとめられたかということは、正しい議論であると思われる。

あるいは、今日わが日本に伝わっておりますところの『大無量寿経』、あの経典が仏滅後いつ頃だいたいああいう形のものにまとめられたものであろうかということは、あるいは今日の仏教学者の言っておりますことは正しいことにちがいない。われわれはそれをかれこれくちばしをいれるべきものでないということは知っております。ただわれわれの問題は外形の問題ではなく内容の問題。内容を離れて、いたずらに外形のみをあげつらっている、それはちょうど毛虫が植木鉢の縁を回っていると同じことであります。これは毛虫が植木鉢の縁をぐるぐる回って、輪廻してついに機根が尽きて死んでしまうというような結論になるものでなかろうか、と思うのであります。

(親鸞の仏教史観 第一講終わり)