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親鸞の仏教史観 第1講-11 (8/5)

われわれ仏教を知ろうとすれば人間釈迦の背景を見よ。この釈迦をして本当に仏陀たらしめ、釈尊が単なる人間釈迦ではなくて、人間釈迦をして本当の仏陀釈尊たらしめ、この釈尊の前に無数の生霊をして南無仏と敬礼せしめずにおかなかったその根拠はどこにある。この大切な問題はそこにあるのでなかろうか。

この大乗仏教はもちろんのことでありますが、小乗仏教といわれる中においても、釈尊の本生譚というものがたくさん伝わっている。それはただ単なる童話的創作的物語でありましょうか。そこにいかなる意義をもっているか。われわれはそれを静かに考える必要はなかろうか、こう思うのであります。

『華厳経』の善財童子の伝説、あの善財童子の求道の歴程、そこに現れてきますところのもろもろの善智識、それは何を意味しているものであるか。『法華経』の本門開顕、またあの地涌菩薩、大地が割れて無量無数の菩薩たちが大地より涌き出た。それは何を意味するものであろうか。それにおいて何をわれわれが教えられるのであるか。したがってこの『大無量寿経』の法蔵菩薩の名による阿弥陀如来因位果上の物語というものは何を語るものであるか。ここにわれわれは静かに考えなければならぬ一つの重大な問題があるのでなかろうか。仏教は釈尊より起こった、仏教の歴史は釈尊より始まる。いわゆる仏教史というものは釈尊に始まるということは正当であります。しかしながら、その仏教は仏教史以前に仏教の根源がある。源いよいよ遠くして流れはいよいよ長いであろう。流れを汲んで本願の遠きことを初めて知ることができるのであろう。

(親鸞の仏教史観 第1講より)