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親鸞の仏教史観 第1講-10 (8/4)

それで現代仏教学者のいわゆる、小乗仏教からこれを理論化し神秘化してくると大乗仏教が出てくる。そういうようなことは、それは事実的全生命的要求を除去して、単純なる理屈を考えれば、一応はそういうような理屈も想像してできないこともありません。けれども、そうした結果を想像してきては、三千年の仏教歴史は断じてできない。もとより仏教の体があっていわゆる仏教の歴史がある。仏教のないところでは、いわゆる仏教の歴史は単なる主観的観念の夢でないか。仏教の体験の事実のないところに仏教の歴史を創造しようということは、いったい何を意味することか。まさしく民族祖先の体験において生きているところの仏教という対象において、仏教の歴史という方法が成立する。つまり仏教ということと仏教史ということと、対象と方法と一つなのであります。それだから、時間の中に流れてしかも時間を超越せしめるもの、時間の中に流れるという意味において、それを仏教史という、時間を超越せるという点を仏教と名づける。二者はただ観点の相違にほかなりません。

この仏教というものを明らかにするに当たって、私はいつも領解し易いために例を引いて申すのでありますが、この頃しきりに唱えられる日本精神、従来大和魂と申しましたが、この日本精神というものはいったいどこにあるのか。日本は神武天皇の即位をもって紀元としている。日本の歴史はそれから始まる。しかし、本当の日本は神武天皇から始まったのでない。神武天皇以前は、いわゆる歴史の事実としてははなはだはっきりしてはいないけれども、この神武東征肇国の歴史以前にこの日本の広遠なる根源がある。むろん、その無尽なる源泉は今日まで無尽に涌き不断に流れている。この唯一真実の歴史的事実そのものに日本精神がある。されば、この日本精神というものの意義を明らかにするのは、神武天皇以前のあの神代の伝説記録、そこに日本精神というものの根源がある。

あの神代の年代というものは、それは時間的にこれを求めてみても、空間的にこれを求めてみても、ほとんど時間的にどれだけの長い年代にわたっていることであるか、また空間的に地球上どれだけの広さの間に起こったところの事柄であるか、それは茫漠として捉えることはできない。ちょうど夢物語のようである。夢物語のようでありますけれども、それは確実にして疑うべからざる厳粛な事実である。私はそういうことを歴史的事実そのものについて一点の疑いを雑え得ないのであります。

このことを申すのはきょうの私の目的ではありません。またそういうことを私は特別に研究しているわけではありませんから、それはそれとしておきまして、いま仏教、仏教史というものに眼を転じますと、仏教というものは釈尊から始まったものだ、昔からこう思い、また言っているけれども、思いますに、仏教における釈尊の位地というものは、ちょうど日本の歴史においての神武天皇の位地に相当してお出でになるものでなかろうか。一概にそんなふうに独断専決してしまう必要もないわけだけれども、まあ了解の便宜上考えますと、たいがいそんなような位地に当たるのでなかろうか。

(親鸞の仏教史観 第1講より)