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親鸞の仏教史観 第1講-9 (8/3)

だいたい人間の思想は単純から複雑へとなってくる。いわゆる進化の理法により、教主釈尊は単純切実なる実践内観の道を教えられたに止まる。釈尊には深い哲学的思弁というようなものが極めて卑近な人生日常の事実、そうして何かしれない一種の底力と語に言いあらわせない深みがあるけれども、その力と深みとはいかなる淵源から涌ききたったかはまったく解らない。しかし、とにかく説いてあることは誠にごもっともな、誰が聞いてもいかにももっともらしく聞こえる極めて単純明朗な道を説かれた。いわゆる理論的な、もしくは神秘的な道は説かれない。何人も聞いて到達し得べき道徳的実践的な道を説かれた。それがだんだん哲学化し、もしくは神秘化して、そうして大乗仏教というものが起こった。こういう具合に考えられると思います。

そういう具合に考えてくると、衆生が仏に成るということはまったく望みがないことになる。そんなふうに考えられることは、仏になるという問題が初めからなかったことの事実的証明である。気のぬけたビールのように、初めからこの根本の問題をばのけておいて、ただ物を物として扱う。物を物として扱うのは当たり前のことのようだけれども、物は物だけれどもそれはいかなる物であるかという内容を内観せずに、ただ単に物だ。こうして皮相的抽象的概括的に取り扱って、もっと内面化し具体化した物を知らない。物を類聚化した物として観る見方であります。

そういう方針から言えば今の自然科学の研究と同じような研究でありますから、自然科学の物と同じように経典というものを観る。今このコップの水を化学的に分析すると、まったく本来の水と異なる酸素と水素と二つになる。しかして本来の水はまったく滅無する。それと同じように経典を扱ってくれば、なるほど今日の仏教研究というものは間違いない。そういう一つの研究方法というものがあるに違いないのであります。しかしかくのごとくして、それがどういう結論になるかということはほぼ考えなくても明らかであろうと思うのであります。コップの水の円成実性の問題は依然として未解決のまま残されているのであります。

わが親鸞の求められましたところの仏道、すなわちわれらの先祖、いわゆる二千五百年ないし三千年の仏教歴史というものはそんなものでない。これはわれら迷える衆生が生命を賭けて仏を求め求めて、そうして遂に求め得たところの歴史的自証であります。われらの先祖が一心にそれを求めて、一向にそれの上に歩み来たったところの仏道々場の歴史であります。決してこの頃の人が考えているように、根本仏教から小乗仏教に、小乗仏教から大乗仏教に、大乗仏教から一乗仏教に、また自力仏教から他力仏教にというように、いわゆる進化発展したる歴史ではないのでありまして、そういう歴史は仏教ではないのである。真実の意義においては仏教否定の歴史であります。真実の仏教の歴史はまさしく衆生が仏に成る歴史的道程、すなわち仏道円成の歴程であります。いわゆる「興法の因うちに萌し、利生の縁ほかに催」して、かくのごとくして釈尊を初めとして三千年の間、諸仏菩薩が歩み来たったところの歴史であります。これは絶対に間違いない事業でありました。

(親鸞の仏教史観 第1講より)