表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

親鸞の仏教史観 第1講-8 (8/2)

この頃はまあ仏教の大学だけでなく、公私立の一般の大学で仏教研究の声は盛んである。けれども、結局仏が何を説いたか、釈迦が何を説いたかという問題だけが問題になって、本当に釈尊が何をいかによく自ら証得したか、何をいかに教説せられたかというこの実際問題ということは等閑に附せられている。そういう現象を見まして、今日の仏教学というものに対して、多くの真摯なる求道者はたいがい失望の愁声を漏らしている。

仏教の大学へはいっている人の中には、われわれは何のためにこういうことをせねばならぬのか、いったいわれわれは何をしているか、自分は何を目指しているのだ、というようなことを、まあ正直に言うと仏教の学校にはいっている人は、俺は何のためにここにいるのか、ということを疑問にしている人はいないように見える。たいがい顔を見るとわかる。ここへお出になった方はそういう方でなかろうと思いますけれども、どうも俺は何をしに来たのであるか、今日卒業したが俺はいったい何をしてきたのだ、六年間、三年間、たしかに仏教を研究してきたに間違いないが、いったい何を研究してきたんだと。まあ夢が醒めるというのですか、夢すら見ることができないというのでありますか、そんなような状態にあるということの、その由って来たる所はどこにあるかということは、これをもって推し量るべきであります。

話が横路へ行ったようでありますのでもとへ戻しまして、仏教は仏に成る道。仏に成った釈尊はいかにして仏に成ったかを内観し、それにおいて一切衆生の平等に仏に成る道を明らかにせられた。その自証によって一切衆生は仏に成ることができることを能証し能説したもうた。啻に仏に成ることが慥にできるという見通しだけでなしに、自ら進んで、いかにすれば仏に成れるかという、正しく仏に成る修道を明らかにせられた。それ全体が仏教である。真実の仏教というのは、その中に一貫している仏道の展開にほかならぬのであります。

いったい仏教というものは、一にも二にも釈尊の教説であると考えられる。ただ一概に釈迦が説いたという一点に固執しているものだから、それは単なる唯物論、いろいろ唯物的に歴史の材料をさぐる。経典も紙に書いたものである限り一つの物、それは物であるという意味におきましては、こういうコップも同じ物に違いない。経典を調べて、この物はいつ頃できたものか、そういう具合に考えられる。それの相は物に違いないけれども、教法それ自体は物において、物を通して、物を超え、物に先立ってそこに現れている、そこに具体化されている精神である。そういうものは何であるか。そういうことは問題にせずに、ただ単なる物としてそれを分析し、そこにはどういう思想があるか、その概念化された思想を分析して、この経典はいつごろできたものか、こういう具合に研究されている。したがってそういう具合に研究すればそういう結論になってくるということは当然なことでありましょう。ただ問題は方法論の問題である。

(親鸞の仏教史観 第1講より)