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親鸞の仏教史観 第1講-7 (8/1)

今日の仏教学者の研究の方針は、仏教というものは仏陀が説いた教えだ。したがってかれらにとってはただ仏陀が説いたか説かないか、そういうことだけが問題になっている。しかしながらわれわれの問題は、仏陀が説いたか説かぬか、こういう事項も一つの重要問題にちがいないけれども、それよりもっと重大な問題は、仏教というものは仏に成る教え、仏を説く教えなのだ。畢竟ずるに親鸞の仏教は仏自証の教え、自説の教えである。あるいは仏能証能説の教えである。これら能所の位地をはっきりしておく必要があります。しかるに、このごろの仏教研究というものは、仏に成る、仏を説くということをのけものにして、ただ仏陀がどういうことを説いたか、したがって仏陀が説いた教えから推論してその所証の道を想定するにすぎない。

あるいは言うでありましょう。今日われわれが専心専意仏陀が説いたか説かんかという仏説問題を研究することは、それは仏陀の教説は如説修行すれば必ず仏のごとく仏に成れることを説きたまえることを信ずるからで、いまさらに汝のごとく言う必要がないから言わないのだ、こういうとあるいは叱られるかも知れません。そういうお叱りは私はあえて甘んじて受けても差し支えはない。差し支えはないが、どうも今日でもそういうことを承知の上でそう言っているお方もおられるであろうかと私は思っている。けれども、どうも雑誌とか著述とかいうものに現れている...それも私はあまり機根がないものですからたいがいのものは見ません...けれども、仏陀が説いたか説かんかということのみを決めて、仏に成る成らぬという実践の事業はあまり問題にしない。それに傑出したる学人はもとよりそこまできているかも知れんけれども、一般学徒はそういうことはほとんど問題にしないように考えられるのであります。

かくのごとくして、この仏教の研究というものがいったいどこへ向かって歩いているのであるか、こういうことをよくみなさんに私はお聞きする。まあ自分は年寄りでありますから、老人のいらぬお世話でありますけれども、心からそういうことを憂うるのであります。今日は仏教復興だの、仏教研究の全盛時代だのと言う。そういう声は盛んだが、どうも、空樽の音高し、酒を飲んで樽が空になる、空になる頃みんなが酩酊して樽を叩いて踊り歌う、もう樽の酒は飲んでしまった、だからして酒を飲んでしまって空樽を叩いて踊り歌うのは自然の道理かも知れないけれども、事によると初めから酒を飲まんものまでが、ただいたずらに踊り歌うものもあるのでなかろうか、そういうような疑いがある。

(親鸞の仏教史観 第1講より)