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親鸞の仏教史観 第1講-6 (7/31)

しかし、そういう仏教史観は宗教否定の唯物論という基礎に立って仏教滅亡を説明するところの仏教唯物史観、やはり一種の仏教史観だから、そういう意味において、やはり過去の仏教を説明する学問として価値ある説であるにちがいないと思うのであります。それ以上私はかれこれと申すのでない。やはりそういう一つの立場、無自覚とはいえ、唯物史観の立場に立っているのである。こう言えばもうそれ以上言う必要はないのであります。それは、昔からやはりそういう一種の仏教史というものがあったのでありますが、歴史研究というものがだんだん明らかになって、そういうように従前から無自覚的に歩いていった方針が明らかになってきて、そうして新しく唯物仏教史観というものが今日ではどれだけの程度に成立しているか、私はそういうことは知らないけれども、現今新しい仏教学徒が盛んに論じていることを聞いてみると、相当立派な唯物史観が成立しているのでなかろうかと思うのであります。そういう意味において敬意を表してよいと思うのであります。

それはそれとしておきまして、親鸞の仏教史観においては、あえてかかる仏教史観に一概に反対するのではありません。それらをもやはり内に包んでいるのでありましょう、この親鸞の仏教史観においては。...いったい今日の人の考えでは仏教の真理というものは釈尊以前にはまったくないので、釈尊が初めて忽然として発見されたのだ、したがって釈尊が仏教の根本的開祖であると。もちろんそれにちがいない。私といえどもそれに反対するわけでない。釈尊は仏教の開祖である。仏教はこの意義において釈迦教と呼んで差し支えないのである。この意義において仏陀といえば直に釈尊のことであって、したがって仏教といえば釈迦教である。かくして仏教というのは仏陀が説いた教え、すなわち仏陀所説の教えということである。すなわち仏陀の証、その境界のごとく仏陀が説いた教えが仏教である。すなわち仏所証の法、仏所説の法、こういう具合に一般に考える。

けれども親鸞の言っておられる仏教というものは、単に仏陀が説いた教え、仏陀が悟った教えというだけのことではない。親鸞の仏教はただちに仏陀に成る教えであり、仏陀を説く教えである。仏をして真に仏たらしめ、同時に衆生をして仏たらしめんとする教えである。仏が真仏たる覚証によってすべての人類が平等に仏に成るべき因道を開顕されたのであります。

(親鸞の仏教史観 第1講より)