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親鸞の仏教史観 第1講-5 (7/30)

それで今申しますように、親鸞から見れば親鸞以前二千年、今日までは二千五百年ないし三千年と申すのでありますが、私から言えば二千五百年ないし三千年の仏教の歴史、親鸞から言えば二千余年の仏教の歴史、この仏教史を一貫するところの仏道の根幹というものは何であろうか。

明治以来六十余年間歩み来ましたところの現代の仏教研究というものによって観ると、まず教主釈尊の純一なる根本仏教から遺弟たちの小乗仏教というものになって...三蔵結集を契機として幾多の部派に分裂して個人的主観的小乗仏教というものになり、その弊の極まるところ、ここに一種の復古運動、釈尊中心主義統一運動として、大乗仏教というものが興ってきた。第一に未来のこの世界の教主弥勒仏出現の要望によって大乗運動は端緒を得、それに次いで東方の阿★如来の浄土往生の信仰が興り、最後に西方阿弥陀仏極楽浄土の信仰というものが現れ、ここに大乗仏教運動の志願は成就せられたのであると、こんな風にいかにももっともらしく...もっともらしくと言えば失礼であるけれども、私には確信できないから、もっともらしくと自分の愚かなる感情を表明したまででありますが、そういう具合にもっともらしく、確実らしく、そういう具合にほとんど決定されているごとくに、一般にそういう説が行われている。私は一種の説明としてのそれをかれこれと申すのではありません。そういう具合に説明するのも一つの仏教歴史の説明でありましょう。

けれどもそういう道程方法によって創造される仏教は一つの唯物史観の対象である。仏教唯物史観とでもいうべきものでありましょう。それもたしかに一種の仏教史観に相違ない。けれどもそれは、唯物論の立場に立ったところの仏教史観というものに過ぎないのではなかろうか。つまり仏道の精神を否定する唯物史観、そういうものでなかろうか。私ごとき浅学不徳の者がただひとりこの道理を説きましても、今の世にはいたずらに嘲笑の的たるに過ぎないでありましょうから、これ以上言うことをやめます。けれども、現今、仏教研究の大勢を観るに、だいたいの傾向をいうと、そういう結論に到着する。かくては、ついに一貫した仏教の真理の体というものはなにもないのであります。その史観の上に一貫した仏道精神はなんにもなしに、いたずらに学究的仏教史というもののみが残る。そういう一つの仏教史観も一種の仏教史観にちがいない。

*文中の★はUnicode[U+95A6]の「しゅく」という字です。

(親鸞の仏教史観 第1講より)