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親鸞の仏教史観 第1講-4 (7/29)

近頃は特に浄土教に関するいろいろの問題がいろいろの方面から提起され、また研究されておりますが、この浄土教に対する論難というものは、もちろん今日の思想界において、特に新たなる意義をもって現れてきたのでありましょう。けれどもしかし、浄土教に対する論難というものはずいぶん古いものであって、インドにおいても中国においても浄土教に対するもろもろの非難あるいは嘲笑、そういうものが昔から絶えず盛んに起こった。浄土教が盛んであれば盛んであるほど、その疑難が盛んであった。つまり、浄土教に対する疑難が盛んであったということは、浄土教の勢力が盛んであったということを最も直接的に証明しているというべきであります。

ここまでお話しつつ、いわゆる「信順を因とし疑謗を縁とする」というこの親鸞のお言葉を、ただいま金子さんがご引用になってお話くださいましたので思い出しましたが、この信順と疑謗というのはなぜか知らないけれども、そこに反対してしかもその二つが必然的に関係をもっているということ、およそ信順のないところに疑謗は起こらず、疑謗の声のないところに生命ある信順はない。もちろん疑謗する人には同時に信順はできない、現に信順した時に疑謗はすでに止む。それにもかかわらず真剣なる信順者のあるところには必ず懸命の疑謗者があり、さかんなる疑謗者に対して疑蓋無雑の信順というものが成立し、またこの超然たる信順者に対して疑謗というものがいよいよ盛んに興ってくる。言ってみれば、われらの真実浄土の歴史というものは、いわゆる信順と疑謗との常恒不断の戦いの歴史であった。真実浄土の歴史はただの信順の連続ではなしに、信順と疑謗とが不断に相争うところに、浄土荘厳の聖業の無尽の展開がある。そういう具合に観られるのが親鸞の仏教史観、つまり親鸞は仏教史をそういう具合に観ておられるのでなかろうか。これがすなわち浄土真宗の立教開宗でなかろうか、こういう具合に私は思うのであります。

(親鸞の仏教史観 第1講より)