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親鸞の仏教史観 第1講-2 (7/27)

爾来満十七年、今日といえどもあえてみなさんが一般にこれに賛同されるというわけではないでありましょう。けれども、私のこの方針が実際正しい礼儀である、こういうことが自然に一般に承認せられたものとみえまして、大体今日ではそういう具合に、いつの間にやら行われてきているようであります。今日こういう題を私が掲げましても、あれは何宗の僧侶がそういうことを言うのだとお考えにならずに、あれは親鸞を本当に敬うて、本当に親鸞を自分の主・師・親として崇信しているところの人間が話をしているのだ、こういうことをみなさんがご承認くださるようになったということは、この一事だけでも私は、確かに正しいことはちゃんと実行されるものだということの一つの確証となる、こう思っております。

「親鸞の仏教史観」、こういう題目を掲げましたのは、親鸞は浄土真宗を立教開宗したところの祖師である、こういうのが一般の人が認めているところの常識である。ところがこの世の中にはまたいろいろさまざまに考える人があって、いったい親鸞には浄土真宗を開闢する、そういう意思があったろうか、もしあったとすれば、そんなことをどこに彼は言っておられるか。ご師匠法然上人の仰せをこうむってただそれを深信するほかに別の子細はない、法然上人こそは浄土真宗を開闢されたお方である、こういう具合に親鸞は言っておられる、というように論ずる人がいる。それも一概にごもっともでないとは言いません。そういう言論を聞くと、ちょっといかにももっともらしく聞こえる。

しかし、いったい誰でもわかり切ったことのように、浄土真宗を開いたとか開かんとか、そんなことを争っているが、いったい浄土真宗を開くとはどういうことか、どうすることが浄土真宗を開くということか。それよりも、いったい浄土真宗というは何事であるか、何を浄土真宗というぞ、その具体的内容いかん。その内容が不明瞭であるならば、したがって、その浄土真宗を開くとか開かぬとかいうことは、われわれが門の戸を開いたり閉めたりする、そういうことのように明瞭ではないはずであります。門の戸というものがわかっているからその門を開く閉じるということもある。けれども、浄土真宗というものはなんだかわからない。えたいの知れないものを無批判に、開いたの開かんの、いったい何を言うのか、大体そういうようなことが自分では考えられます。

(親鸞の仏教史観 第1講より)