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真宗の教行証を敬信して (7/25)

今已にと、前念に今というものが後念に即時直に已と、限りなく久遠の過去から新しい今が三世即一念と続いて来るのであります。今と已とが前後一念に統一せられつつ相続いているのでありましょう。何時も今已であります。これが立体的に連続的に動く現在であります。本願に遇いそうして光明を聞き、真実の行信を獲て、現生に正定聚に住するが故に滅度掌中に在る、これが敬信真宗教行証であります。

固より真宗の教が主になって居りますが、この教は行・証なき単なる律法的なる教ではなくして、内に行・証を円満具足している所の真実の教たることを顕すのであります。真実の教には必ず行・証を具備して、始めて永遠に流伝するのであります。今『大無量寿経』の歴史というものは、空虚なる教の止住ではなくして真宗教行証の血脈相承の等流の歴史であります。行・証のない教には血脈等流の歴史はないのであります。だから後序の文には、竊以、聖道諸教行証久廃、浄土真宗証道今盛と、これは聖道を今は単なる教道、浄土真宗は如来の本願力の力願相符畢竟不差の無作自然の証道であるという風に顕しておいでになることであります。単なる過去の固定した教ではなくして、今現に生きて行・証と等流して、常恒不断に自利・利他し給う所の念仏成仏の、阿弥陀仏今現在説法の歴史であると顕す。念仏は行であり、成仏は証であります。この生に於て念仏して、来生に於て証を得るといいます。現世と来世とは一念に相応して同一体であるが、義に於て前後に分ち、前念命終後念即生というのでありまして、全一念一時の現在の進展の二位に外ならぬのであります。どうもすると来世などというものは存在しないと非難するものがあるが、しかし真実の現在というものを離れて別に未来世ありとするのは迷妄でありましょう。かかる来世を執するは有の見、常見であります。同時に非難者の主張する現在なるものも何等進展の機なき概念でありまして、かかる現世主義は無の見、断見であります。本当に本願名号の法を聞信する所に於て、已に速疾円融の真教あり、随って満足功徳の大行があり、真如一実の正行がある所に不断煩悩得涅槃の真証がある。これは巧みに顕したのでありまして、教・行・信・証という四法を、信の一法を純粋能信の具体的なる正因・正機として大行の中に包んで、而もこの大行を開いて真宗教行証と顕してあるのであります。

敬信真宗教行証、特知如来恩徳深。御恩の深いことを深く知るのであり、随ってこの知とは信知するの機であります。前に敬信といったからして、ここは知るとだけいったのでありましょうが、特知如来恩徳深と深信を表明せられたのであります。斯以慶所聞嘆所獲矣。所聞とは即ち名号であります、所獲は即ち信心であります。即ち所行と能信とを列挙しまして、所聞の名号に就て本願・光明の真宗の教法の至徳成就を慶喜し、所獲の信心に就て具に至心・信楽・欲生の三信の内的必然の開展の真実道理を驚嘆する。所聞は善知識血脈等流の実語であります。所獲は如実修行の信心に由って開顕される所の本願三信の願力自然の道理であります。三信の道理というものは我々からいえば、仏に救われるに就ての必然の道程であります。即ち如来を信ずる心が如来の本願力の回向の信心なることの証明の道であります。又之を如来の方からいえば、如来が衆生を救い給う所の道理であります。即ち衆生の信心を発起せしめんとする如来の至心が、正しく遂に衆生を招喚し給うに至るまでの内的必然の道程であります。総じて一如の教・行・信・証の必然的道程を讃嘆しようとされるのであります。教・行・信・証に対しては慶嘆であり讃嘆である。全く慶嘆の外はないとお示しになったのである。

以上、誠に乱雑な纏りのないことを申しましたが、御蔭により兎に角一通りだけ、総序の御文を皆さんと御一緒に聴聞させて戴きました深厚なる御縁を、深く感謝する次第でございます。

(行信の道  「49 真宗の教行証を敬信して」より)