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愚禿親鸞の名乗 (7/24)

爰愚禿釋親鸞、第五段は悦受師訓述聞持で、正法伝統の七祖の師訓を受くるを悦んで、正しく之を六巻の文類に聞持する、知恩報徳の意趣を述べられた。正しく『教行信証』を御製作の来意である。爰愚禿釋親鸞と、御自分のことをお述べになる時には必ず実名を掲げて居られる。非常に厳粛な感がするのであります。『歎異抄』にも「親鸞におきては、ただ念仏して」とか、「親鸞は、父母孝養のためとて」とか、或は「親鸞もこの不審ありつるに」など、これは兎に角日本の文章としては特別な文法であることと聞いているのであります。われはと代名詞でいわないで実名を掲げるということ、我が国では貴人の前には必ず実名を自ら実名を名乗って申し上げる。そこには非常に謙虚なる深い自覚が現れているのであります。そこに大きな仏の本願を一人にお引受けするということは、即ち無為自然に一切衆生の罪の責任を自分一人に引受けるということになる道理であります。だから機の深信というものは、仏の十方衆生救済の本願を自分一人にお引受けする、そこには一切衆生の罪を自分一人に引受けるという力が自然と湧くくかと思います。茲に本願相応の意義があり、正に法蔵菩薩の体験であります。一心一向とは、一心とは全心であり、一向は全身である。身心を挙げて南無阿弥陀仏と念ずる時、天地万物は同時に感応して南無阿弥陀仏を顕現するのでないかと思います。だから爰愚禿釋親鸞という時には、確り御自分を見つめて居られる。そこに全身南無阿弥陀仏になっている。但なる阿弥陀仏でなく、機法一体願行満足の南無阿弥陀仏であります。

慶哉、西蕃月支聖典、東夏日域師釋。西蕃月支聖典は先ず印度の龍・天二菩薩の聖典を挙げたのでありましょう。前には摂取不捨真言・超世希有正法という処には三経を挙げてある。それに対して三国七祖の伝承を示さんとするものでありましょう。随ってここには聖典というても三経のことは除きまして、龍・天二菩薩以後の高僧を挙げたのであります。東夏は曇鸞・道綽・善導の三師、日域は源信・源空の二師であります。即ちこれは七高僧のお聖教であります。特に印度の龍・天二菩薩は、世尊と同じ国に生れられ、大乗仏教を復興された偉大なるその功徳を讃仰して、人を菩薩といい著述を聖典として敬い、曇鸞以下の宗師の解釈と区別せられたのであります。そうして七高僧の論と釈とに「遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」。是れ偏に果遂の願の恩徳であると感謝せられたのであります。

(行信の道  第五段 立教開宗

「48  愚禿親鸞の名乗」より)