表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

果遂の誓に於ける喜びの経と悲しみの緯 (7/23)

乃ち、誠哉、摂取不捨真言、超世希有正法、聞思莫遅慮。ここに重ねて前の勧信・誡疑を総じて結び給うた。この一段は喜びを経にし悲しみを緯にしておいでになるのであって、御滅後の我々に、不果遂者の誓願に就て甚深の自覚と注意とを御催促になっていると伺われるのであります。初の難思弘誓という処は、表には勿論総じては第十八願をお挙げなされたのであるけれども、難思の語には裏に別して果遂之誓というものを何時でも静かに深く憶念して居られることを彰すと思うのであります。そしてそこに前後一貫して深厚なる宿縁いうものを、悲痛なる宿業に不即不離に語っておいでになることを伺うのであります。総て自力を捨てた所に他力は現れて下さる。忽然として他力が顕現するのではない。他力には自力無効を知るということが特に必要である。これは誠に容易ならぬことである。この必要なる自力無効の深き自覚に対して、絶対他力というものが始めて明らかになるのであります。即ち善導大師の機・法二種深信の如く、対角線的なる自力と他力が常に表裏をなして不即不離的に現れているのであります。『教行信証』を拝読しても、表には端的に乗ずべきことが説いてありますが、矢張りその裏には最も痛切に自力の無効ということが顕彰されてあると痛感さるるのであります。

誠哉、摂取不捨真言、超世希有正法。摂取不捨の言は『観無量寿経』に出て居って、この重要なる文字も六字の名号と共に、『大無量寿経』に出て居らないのであります。『歎異抄』を拝読しますと第十八願を顕す時に、特に摂取不捨の誓願という語を以て顕してあります。無論、第十八願には若不生者不取正覚と、大体未来往生の語業上の誓約でありますが、それを『観無量寿経』によって更に具体化して如来の身業として、現生正定の体験の上に摂取不捨を本願の誓約の成就として、本願を成就に即して、第十八願を念仏の事実として『歎異抄』には見て居られます。これは恐らくは善導大師、それから源信和尚、それから法然上人と、ずっと伝っている伝承の法門ではないかと思うのであります。ここには特に摂取不捨というのを体験の事実と顕して、誠哉、摂取不捨真言超世希有正法と仰せられたのである。摂取不捨は『観経』、希有は『阿弥陀経』、超世は『大経』と、三経の語を取ってある。

そうして三経の意を総じて挙げて、聞思莫遅慮と仰せられた。聞思ということは『信巻』の末巻に『涅槃経』を引いて、『大経』本願成就の文には唯聞其名号とあって聞思其名号とはないが、聞其名号ということは南無阿弥陀仏という言葉を但徒に聞くのじゃない、名号の意味を聞思するのじゃ、だから、然経言聞者、衆生聞仏願生起本末無有疑心、是曰聞と釈されているのであります。それを今聞思してと仰せられたのであります。仏願の生起本末を聞思して大疑已に無し、今更に何を躊躇遅慮するのであるか。これは前に疑網というに対して今遅慮と仰せられたのであります。

善導大師の法の深信釈の文に無疑無慮乗彼願力と、総じて無疑、別して無慮という。明瞭に法を疑うという程でないけれども、何か知ら最期の所に二の足を踏むのであります。進んで法を疑うというわけはないけれども、退いて機を疑い心が奮起せぬのであります。心に精進がない。これがつまり遅慮というのでありましょう。これは疑は直接に法を疑うのであり、慮は何か機に就ての疑いというものがあるのであります。だから深信ということに就ては、法の深信の前に特に機の深信を挙げてあります。それは敢てす総体的に法は疑はないけれども、特別に機に就て躊躇して、本当に感奮して行けない。猫の頭に袋を被せたようなもので、猫は袋を被せられると後の方へ退却する、猫は退却すると袋が取れるように思うであろうが、猫が退却すると袋も一緒に退却するから駄目でありましょう。まあそういうような所じゃないかと思います。前に法に対する疑網と挙げたから、ここに聞思莫遅慮と、徒に我が機を卑下せざれと述べられた。善導大師の無疑無慮という所で、総じては無疑、別しては無慮であります。

第四段は聞法の宿縁を顕して人をして随喜せしめ、疑いを除いて下さるのであり、言葉は他人に対して誡めて居られるけれども、御心持からいえば御自分が、これだけの法に遇うたことは偶然のことではない、徒に自分一人だけ慶んで居れるようなものでない、偏に親鸞一人が為に数々の御苦労下された如来の御心を念じ奉るにつけても、興法利生の為に身命を捨てて動かずには居れないと。我れ独り信を得たと思うは、これは邪定にして正定でなく、自性唯心の独断論独我論である。是れ即ち疑城胎宮であって、三寶見聞の利益なく、法を本当に信じたのではないのである。

(行信の道  「47 果遂の誓に於ける喜びの経と悲しみの緯」より)