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仏道史観としての本願の... (7/22)

尚それに引続いてこの果遂の誓を証明する所の、有名なる三願転入の表白文というものが出て居ります。

是 以 愚 禿 釈 鸞、仰 論 主 解 
義 依 宗 師 勧 化、久 出 萬 行 
諸 善 之 仮 門 永 離 雙 樹 林 
下 之 往 生、廻 入 善 本 徳 本 
真 門 偏 発 難 思 往 生 之 心。
然 今 特 出 方 便 真 門 転 入 
選 択 願 海、速 離 難 思 往 生 
心 欲 遂 難 思 議 往 生。果 遂 
之 誓 良 有 由 哉。爰 久 入 願 
海 深 知 仏 恩。為 報 謝 至 徳 
摭 真 宗 簡 要 恒 常 称 念 不 
可 思 議 徳 海。弥 喜 愛 斯 特 
頂 戴 斯 也。            

と、これは果遂の誓の御恩を特に深くお喜びになっている。祖聖が偶々この行信を獲、そして遠く宿縁を慶んで居られるそこには、第十八願の中から更に新しく第二十願の果遂の誓という第二義的のものを発見せられた。一如の第十八の本願を十方衆生の教化せんとするに当り、茲に新たに之を再認識する所の方法が果遂の誓というものである。無論、そこには全体として弘誓というは第十八願のことでしょう。而してこの第十八願を立体化するものは第二十願である。

だから祖聖は、殊に果遂の誓というものに就て、一面には自分が名聞利養に関って仏の御恩ということを知らずして、口には念仏を称えるけれども心は常に名利と相応しているに過ぎぬものであると、痛く悲しんでおいでになる。しかし同時にそれは徒然なる個人の悲しみに止らずして、その深き悲痛は直に如来の本願を具体化するの機縁となり、遂に第二十願の果遂の誓として本願が歴史的特殊宗教となったということ、そこに往相回向の純一真宗の外に、還相回向の方便的なる教団的真宗が第二義的に成立したる、一種の善巧方便を理解し得るのであります。弘誓強縁という処には純粋なる第十八願が挙げてあるけれども、遠慶宿縁という処にはその第二義的方便の形式なる果遂之誓というものを、痛しくも恐懼感謝されているのであると思います。則ち宿縁という語は簡単な語でありますが、『化身土巻』の文を考えてみるというと、甚だ深いものがあろうと思います。宿縁に就ては、尚まだいろいろ申すべきこともありましょうが、これだけにして略して置きます。

若 也 此 廻 覆 蔽 疑 網 更 復
逕 歴 曠 劫。誠 哉、摂 取 不 捨 
真 言、超 世 希 有 正 法、聞 思 
莫 遅 慮。              

これが即ち先程『化身土巻』を読みました心持が之を詳しくお示しになったのでないかと思う。法は何処にも何時でも遍在するけれども、機というものは容易に獲難い、随って問題は機を掴むということが大切である。千歳の一遇というはこれである。随ってつまり機というものは詳しくいえば時機ということであります。浄邦縁熟調達闍世興逆害、浄業機彰釈迦葦提選安養と第二段の処に仰しゃってありまして、誠に大切なのは時機でございましょう。今や本願真宗に遇いながら、若しまたこのたび疑網に覆蔽せられて逕歴して空しく過ぎるのである。是れ誠に自業自得である。祖聖は悲哉と『化身土巻』に悲歎し、垢障凡愚自従無際已来助正間雑定散心雑故出離無其期云々と、深き注意が促がされてあるのでありまして、それをば簡単に今示されれたのであります。『化身土巻』に照し見まして、茲に御自身の機の姿を深く悲しみつつも、如来の法の大悲の願心というものの勿体なきことを新しく再認識し、その使命の重大性を今更に痛感なされてあると思います。

(行信の道  「46 仏道史観としての本願の再認識、その立体観としての果遂の誓」より)