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三願転入の意義-2 (7/21)

私は始終申すのでありますが、我が祖聖は正依の『大無量寿経』をお読みになっただけでなしに、五存『大経』の他の四通りの異訳経典というものを、正依の『大経』と同じように敬うてお読みになったのでありましょう。『大無量寿経』は十二回翻訳されたのであるが、それが存在して日本に伝って来たのは五部だけでしょう。それが正依の『大経』だけで明らかにならぬことのある時、異訳の経典を以て意義を明瞭にするということが、親鸞教学の特色であるということは、十数年来の持論であります。

『大無量寿経』の下巻智慧段に不了仏智というものを、それを異訳の経典の全く異った所の第十一願成就文の「彼の因を建立せることを了知すること能わず」ということに会合して釈明してしてある。祖聖は五存『大経』の重要な処は自由に暗誦して居られるだろうからして、何か必要な時には自由にそれが出て来る。不了仏智不能了知建立彼因故と、全くその全体が聖人の体験の事実となって生きて来る。だから我等如き普通の人間では、全く夢にも考えることは出来ぬ。こういうことは実に不可思議のことである。こんなことは昔の学者もいうて居られぬことでありますけれども、ふと拝読して居るというと、驚かざるを得ないことだと思い、お話をいたす次第であります。

不了仏智不能了知建立彼因故無入報土也と。ここにあるものは一の宿業宿縁の問題である。宿縁宿善の問題は大体その原理は何処にあるのであるかというと、その根源は遠く果遂之誓、即ち第二十願の処に出発しているのであります。『大無量寿経』では東方偈の中に、若人無善本不得聞此経という御言葉がありまして、そこに宿善がなければならぬということを説いてありますが、しかしながらそれを本願の根本に求めてみるというと、果遂の願と呼ばるる所の第二十願に宿善の淵源があると思います。

遠慶宿縁ということは、仮い信・不信を論ぜず自力・他力を問わず称名念仏すれば、それが不果遂者の誓願の御縁というものになって、今度生れ更って来た時に自然に宿善開発して真如の門に転入し、名号のいわれを聞き開いて、そこにお念仏の正信というものが開けて来るのであるということになる。偶々正法の御国に生れ、今ぞ救わるべき時節なるに、若しこの好機会を逸するというと、出離生死の期は誠に容易ならぬことである。宿縁を慶ぶに就て、我々は廣劫の間空しく過ぎて来た、善導大師の十三失の如く、「まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひともよしあしということをのみまうし」あう。聊かでも善いことをすれば驕慢になって法を軽んじ、自分に悪い心が起ればこんなものはお助けにならぬであろうと卑劣になり、法そのものまでも卑める。何れにしても法を恭敬することを知らぬということになる。かくの如く第二十願の疑いの罪ということをば深刻に批判しておいでになります。それに対してみて、お慶になったことが亦如何に深いものであるかということが解ります。

(行信の道  「45 宿業の闇の感覚より宿縁の光の感情へ−三願転入の意義」より)