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三願転入の意義-1 (7/20)

されば適獲行信遠慶宿縁ということは、唯漠然と慶ぶかんじょうだけでなくして、慶びの感情の裏には本当に永い間仏さまに叛いて洵に勿体ないことだという宿業の感覚が、遠慶宿縁という所に現れていると思います。本当に宿業の感覚そのままが宿縁の感情になる。宿業の闇の感覚がそのまま宿縁の光の感情になる。故に『化身土巻』の果遂の誓の文には、先ず浅ましき宿業の無自覚的方面を述べて、

真 知、専 修 而 雑 心 者 不 獲 
大 慶 喜 心。故 宗 師 云 無 念 
報 彼 仏 恩、雖 作 業 行 心 生 
軽 慢 常 與 名 利 相 応 故、人 
我 自 覆 不 親 近 同 行 善 知 
識 故、楽 近 雑 修 自 障 障 他 
往 生 正 行 故           

と、ここは雑修に十三の失ある中の終の四失を挙げたのであって、つまり十三失を前の九失と後の四失とに切り分けたのです。善導大師は唯一様に雑修十三の失と仰せられてありますけれども、祖聖はその十三失の中、初の九失は第十九願の要門の失であり、後の四失は第二十願の真門の自力念仏の失に属するものと御覧になったのである。

勿論、これは多分共通の意義をも有っているのでしょうが、祖聖の御己証によって、後の四失は「彼の仏恩を念報することなし」とということが、一番先に書いてある。乃ち十三の中の第十失は、「業行を修すと雖も」、即ち念仏を称えていても「心に軽慢を生ず」。軽はかろしめる、慢はおごる。念仏を称えても矢張り心に念仏の法を軽しめ、反ってお念仏を称える自分をおごり高ぶる。所称の念仏を軽しめ疑うて、能称の機の功を高め募る。だから彼の仏恩を念報するということはない。仏法を名聞利養の為に世渡りの為にしていると、こういうようなことであります。自らこれは十三の失の中前の九までを第十九願の過失にし、第十から第十三までを第二十願の過失としておいでになるということは、自然無為に感得されたのでありまして、理論でどうのこうのという所ではないのである。

次にこの自力雑心の失を一層深く内観して、

悲 哉、垢 障 凡 愚 自 従 無 際 
己 来 助 正 間 雑 定 散 心 雑 
故 出 離 無 其 期。自 度 流 転 
輪 廻 超 過 微 塵 劫 * 帰 仏 
願 力、* 入 大 信 海。良 可 傷 
磋 深 可 悲 嘆           

と明かし、更に尚、

凡 大 小 聖 人 一 切 善 人 以 
本 願 嘉 号 為 己 善 根 故 不 
能 生 信、不 了 仏 智、不 能 了 
知 建 立 彼 因 故 無 入 報 土 

と、過去の仏教史を痛烈に批判せられた。この文の中に就て不了仏智というは『大無量寿経』の智慧段の文、不能了知建立彼因故無入報土というは異訳『如来会』の十一願成就の文であります。これは異訳の経文を以て正依『大経』の智慧段の不了仏智の言を解釈して、「彼の因を建立せることを了知すること能はず」ということと顕し、不了ということは了知すること能わずということ、仏智即ち仏の智慧ということは、即ち彼の浄土の因を如何に建立しようかということを決定するが仏の智慧である。随って不了仏智とは何ぞや、彼の因を了知すること能わざることをいうのである。経典の文字を如何に綿密に御覧になったかということが解る。

*本文中の*は匚に口という字です。

(行信の道  「45 宿業の闇の感覚より宿縁の光の感情へ−三願転入の意義」より)