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千歳の闇室か千歳の光室か (7/18)

単なる自分自身だけを思えば、自分の理知で如何程考えてみても、結局そらごと・たわごとに過ぎないのでありますが、一切の妄念が尽きて、一度南無阿弥陀仏を念ずる時に、久遠の確実なる一道を新しく認識するのである。思えば我等はこの一道を久しい間背にして、事実叛いて今日まで来ている。而も夢幻の裡に叛いていたとしても、深く自ら悔責して一念発起する時に、唯一瞬間の光が千歳の闇室を照し、光は瞬間であるけれども千年の闇は忽ちに滅し、茲に主客転換して闇は一瞬時の客となり、光は千歳の光室の主となる。そこに真実の行信を獲るという意義が成立する。思えば自力我慢の衆生は仏の五劫思惟の本願、永劫修行の御辛労というものをば背後にして叛いて来たけれども、不思議にも仏の御心を背に擔うて来ている。洵に背にするということは擔うているということになりましょう。

かくて不思議にも永い間の深き罪を知らして貰うた。そうなると罪深ければそれだけ感恩の心も愈々深くなる。「無礙光の利益より 威徳廣大の信をえて かならず煩悩のほこりとけ すなはち菩提のみづとなる」。「罪障功徳の體となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」ということがある。それが千歳の闇室であるならば、一瞬の光が亦千年を照し、それが万年の闇室であるなら、矢張り一瞬の光が亦万年を照す。闇が久しければ久しい程、同じ一瞬の光であってもその輝きは長遠である。

(行信の道  「43 千歳の闇室か千歳の光室か−主客の転換」より)