表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

宿業の感覚と本願の再認識-2 (7/17)

前に述べました如く難思弘誓ということは、予め結果の如何や方法の如何を全く分別せず、唯そうせずには居れない大悲の願いによって動いて下されたのである。しかしながら唯何の訳も無しに動いて下されたのなら、唯一時的の妄想ではないかと速断すべきではない。動き給う前に予定があったのではないのですが、已に本願を発して下された以上、そこに自ら内的必然の道理というものが現れているのであります。それが即ち兆載永劫の修行の内面である。

初から南無阿弥陀仏という道の予定の本願を発したのではない、已むに已まれぬ大悲の本願の発った所に、南無阿弥陀仏の白道が成就されて来たのでありましょう。一切の理知的計画を超えて動くのが無縁平等の大悲心であります。そこに衆生が一念阿弥陀仏(未来往生の本願)に南無(憶念即ち念仏)する時、その南無する衆生を阿弥陀仏(現在正覚の光明)は助け給う(光明摂取、現生正定)。これを前念命終(南無)後念即生(阿弥陀仏)といい、念仏(南無)成仏(阿弥陀仏)自然の大道という。そういう道が成就して来たということが兆載永劫の御修行である。本願の動く所に自然に法爾に南無阿弥陀仏という名号の道理が成就した。是れ『御文』に、「五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただ我等一切衆生をあながちにたすけ給はんがための方便に、阿弥陀如来御身労ありて南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまひらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんばわれ正覚ならじとちかひ給ひて、南無阿弥陀仏となりまします」と、仰せられてあるのである所以であります。

(行信の道  「42 宿業の感覚と本願の再認識」より)