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宿業の感覚と本願の再認識-1 (7/16)

今日、弘誓真宗の御法に遇い、大行・大信を戴くということは、容易ならぬ所の意味を有っているのであって、そこに深く仏の本願・光明の広大なる宿縁の恩徳を感ぜずにいられぬと同時に、この宿縁というものは偏に如来の御苦労でありましょう。御縁という言葉の中には、唯漠然とあるというのではないのでありまして、永い間の御苦労を想うものは、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたりける本願のかたじけなさよ」の常の御述懐こそ、この適獲行信遠慶宿縁の一句に全く合致するのであります。

かく正しく自己一人の為をいう観点から、新しく弥陀の本願の動機を再認識する時、始めて真実の一如展開の歴史の世界というものが見出される。固より単純なる自我は、その現実は忽然として生れ忽然として死んで行く幻影に過ぎぬのであります。しかしながら今や、曠劫の因縁によりてこの大行・大信を戴くことによって、従来一場の夢幻に過ぎなかった自我の現実なる人生なるものも、始めて法爾の無窮の真実生命というものが回向せられるのである。仏の本願を念ずる時に、図らずも自分は、弥陀の五劫思惟の昔の自分は、已に本願の正機として内的必然関係を以て仏と共に在った、だからして自分は仏の御苦労の永劫の歴史の緯をなし、それと一緒に疑謗と反逆とを続け、永い間ずっと自分が仏の御胸を悲痛せしめ申しつつ、本願の不滅の歴史の経に織り込まれ来った。自分は仏を苦しめ申すこと深ければ深い程、仏の方より見れば大悲忍辱の願心を深く掘り下げて一切を引き受けて下さる。何か知らぬけれども、親鸞一人の為に仮令身止諸苦毒中、我行精進忍終不悔と、法蔵菩薩無縁の大悲、唯わけなしにそうせずには居れない純一無二無疑の御心であります。何もどういう当てがあって、論理があって、別に目的があって、作為的に論理的に本願を創造し給うたというのではないのであります。如来の心業は清浄にして地・水・火・風・虚空の如く、何の分別もない一如平等の御心である。普く三世の衆生の為に、只今現在の親鸞一人が為の暗黒の親心で在ますのである。

(行信の道  「42 宿業の感覚と本願の再認識」より)