表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

宿縁と本願-2 (7/15)

仏法では一般に直接なる因よりも間接に見ゆる縁に重きを置いています。人間の思う如き決定的なる因というものが単独に在るのではないのであります。因の背後には一切万物が縁として連続している。この広大無辺の縁に目覚めた感激が信であります。信の背後には名号あり、名号の背後には光明あり、光明の背後に本願ありで、今信心正因といえばとて別に信心というものがあるのではなく、弘誓の強縁に帰する所に信心の正因ということが成就するのである。だから信心正因といえば、如何にも因を以て縁を奪うように見えますが、実は縁を全うじて因を生成する所以なるを開顕するのであります。だから信心正因というからとて、特別なる信念、即ち所信の理念や能行の意志を固執して、与えられたる所行の法を亡失する時、念仏成仏の願力自然の道に背き、所謂一益法門の神秘主義の邪義に陥るのであります。光明・名号の外縁の中に新たに信心の正因を見出したのですから、段々といってみれば、光明を以て母とし、名号を以て父とし、信心を以て自己の業識として、内外因縁和合次第して願力自然の大道を成立し、外なる迷いに対しては如何にも横超の直道であるけれども、内的には昇道無窮極で遠く深いのであります。本当に光明・名号の本願の因縁というものを、自分一人の為であると眼を開かして戴いた所が信心であります。眼を開かして下さるものが光明・名号の本願の因縁である。南無阿弥陀仏をたのむ念仏現行以外に、別に信心という自我的実体があるというならば、それは自力の信であって大いなる過りである、と仰せられるのであります。

この宿縁に就きまして、それを具体化する契機として、宿業というものがある。それが善であれ悪であれ、即ち順であれ逆であれ、一切の宿業が皆仏法の必然的なる深甚の御縁となって来て下さる。茲に於て噫というのは誠に絶大なる慶祝が起るのであります。この宿縁という所に容易ならぬ重大なる意味を有っているのであって、茲に如来の永劫の御苦労がある。永い仏法の歴史は、全体としては清明なる光明讃仰の歴史ではあるが、しかしながらその清明なる経に対応して、容易ならぬ多くの我等衆生の罪と悩みとの緯を織り込んでいるのである。而してそれ等を超越的に一貫統理して、青色青光赤色赤光白色白光の錦を成就するものは仏の本願力であり、又兆載永劫の御修業である。かかるものが等流して仏教の歴史の本流をなしている。誠に勿体ないことであります。だから「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」というのは、有難く宿業宿縁を喜んで居られるのである。久遠の昔の五劫思惟の本願というものは、今日の親鸞一人が為であったと、自分一人に引受けて下さるということは、それが偶然の感想でなく「聖人のつねのおほせ」という限り、本当に助かるまじきいたづらものだということを五劫思惟の発願の時已に之を深く念じて、無為自然に一切衆生の罪を引受ける如来の大悲を体験するのである。同時に仏の御苦労は自分一人の為であった、それ程に自分は仏に反逆をしていたことであった。してみれば仏法の永い御苦労の歴史というものは、われ一人が為に御苦労下さったということは、その特別の意義は、久遠劫より私は仏に敵対して来たのであるという、本願に対する再認識である。誠に難思の弘誓こそは、そうせずには居れない如来の無縁の大悲、一如法界より形を現し名を示し、本願を発して下さったのでありましょう。即ち本能の一如の中から出て来たのでありましょう。仏の智慧というものは理知的なる論理ではなくして、本能の純粋感情であります。しかしながらそれを私共が戴く時になるというと、自らそこに限りのない深い自然の道理、必然の真理というものを具現し来るのでありましょう。仏の本願の名号の中に無上甚深の功徳利益というものがある。仏願の生起本末が自分一人の為であるということを感ぜずには居れぬのであります。

(行信の道  「41 宿縁と本願」より)