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宿縁と本願-1 (7/14)

遇獲行信遠慶宿縁、この宿縁は或は宿因とも或は宿善ともいうのでありますが、宿善開発という時には、特に宿善という言葉を使ってあります。宿因という時は、大体宿善と同じような意味を顕していると思いますが、ここには宿善とも宿因とも仰せられず、特に宿縁と仰せられてある所に、僅かの言葉違いでありますが、無理からぬ所がある。これは遠くは難思弘誓、近くは弘誓強縁の語を承けて特に宿縁と仰せられたのじゃないかと思います。因といえば何か自分の自力のように思われます。宿善という時になるというと、自他に通じて随喜するので稍寛い感がいたしますが、特に順縁に限り逆縁を遮るように思われるのであります。だから縁という時はその内容甚だ寛くして自他順逆に通じ、更に高次的に大願業力の増上縁とか弘誓の強縁とか、久遠劫よりの如来の本願・光明のお育てにより、本願の業力とか、光明の神力とか、こういう意味を顕すのには縁という字が甚だ適当と思われる。

我々は縁というと忽然たる偶然なものであって自己と自覚の連続なく、外にあって自覚的には甚だ軽いもののように考え、之に反して因というと自分の内にあって自己と自覚の統一があり、甚だ重いもののように考え易い。又宿善というと昔かくかくの善い事があったと想い出すが、その善は矢張り凡夫有漏の善業でしょう。有漏の善によって無漏の果を得るということは出来ない。だからして有漏の善業が無漏の果を結ぶということは、それは矢張り縁によらなければならない。我々の行為は理知的個人的に考えれば、唯有漏雑毒の善だけしかない。善導大師の言葉でいえば、

日 夜 十 二 時 急 走 急 作 如 
炙 頭 燃 者 衆 名 雑 毒 之 善、
欲 廻 此 雑 毒 之 行 求 生 彼 
浄 土 者 此 必 不 可 也。    

この世を誤魔化すことは出来るかも知れぬが、仏を誤魔化すことは出来ない、我等は一に自力を捨てて本願真実帰せねばならぬ。これが善導大師の至心釈の精神であります。

(行信の道  「41 宿縁と本願」より)