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遇法と獲信-1 (7/11)

噫、弘誓強縁多生*値。この第二大段が又二段と分れ、第一段は遇法の宿縁を顕して勧信誡疑する。先ず弘誓強縁の辞は遙かに第一段の難思弘誓度難度海大船、無礙光明破無明闇恵日を受けたのである。果上の威神光明を因位の永劫修成の弘誓の宗本に帰一して、弘誓強縁と仰せられたのでしょう。真実浄信億劫*獲とは近くは第三段の大行・大信を承けたのでありましょう。乃ち真実浄信の真実とは本願真実の名号なる大行をいったのでありましょう。円融至徳嘉号転悪成徳正智、南無阿弥陀仏は真実功徳の大行であります。その真実功徳の名号の大行によって仏の本願の強縁を憶念する心、それはそうせずに居れない心で、その為には我等の自己の一切を犠牲にしてもかまわぬというだけの強き業力を有つ、それが真実というものであります。是れ正に至心信楽の至心でありましょう。

浄信とはその至心の本願名号を以て回向せしめたまう所の信心の智慧、真実に自力無効に徹底して一切の迷信邪道に動乱せられない、純一柔軟にして而も金剛不壊なる信楽は、真実の大行を体として、真実の本願の大行を全体として新しく展開して来る所の能信の心であります。それは全く所行なる名号の理であるから、何か特別なる信念という如き所信の心境が、所行の名号の法の等流の外にあるわけではない。新たに自己の覚悟を決めなければならぬと思い、又一旦決定した信心が壊れたという如きものではない。何か高遠なる理想を創造して信念と名くる一種の境地を定めようとする、かくて創造せられたる信念は遂に倒壊を免れぬであろう。頭が動けば直に肚が壊れるからである。今この行信の道に於ては、固より如来の本願の名号の衆生の疑惑を除却して一如の真証を獲得せしむる真実の道理が信心である。だからして聞其名号信心歓喜と、名号を聞くというのは、徒に南無阿弥陀仏の声を聞くのではありません。徒に声を聞くのは但聞であり、如実の聞は聞思であります。名号に於てそこに仏願の生起本末の道理を聞思するのであります。己を空しくして専ら仏願の生起本末が明らかになった所、逆にいえば所謂信念や確信など有っても無くてもいい、能称能行の人の分別は無為に消滅して、「ただ南無阿弥陀仏が往生する」と一遍上人もいうて居られます。これは正しく自力・他力を超越する一種の証の境地かと思います。我が祖聖の方は正しく宿善開発して善知識の教の下に本願を聞思し、疑蓋なき一念帰命の信の一念の位に立って居らるるのであります。真実浄信とは疑蓋無雑の深信であります。「義なきを義とす」と信ずることであります。

注:文中の*は匚の中に口という字です。

(行信の道  「39 遇法と獲信」より)