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奉行崇信 (7/10)

そういう人に対して、特仰如来発遣必帰最勝直道、専奉斯行唯崇斯信と、一句一句に特といい必といい専といい唯という。こんな一句一句に力を込めて居られるのであるという所に注意せしめられるのでございます。ここに発遣とあるのは彼の『散善義』の二河譬及び『玄義分』序題の善導大師の言葉に依るのでありましょう。直道というも二河譬の正念直来と直進念道とあるに依ると共に、その源は『大経』の住最勝道という言に依るのである。如来は東岸上の釈尊でありましょう。この釈迦如来に対して最勝というたとすれば、『大経』には弥陀を最勝尊というてあるから最勝尊たる弥陀の直道と解釈しても差支ないが、必ずしもそういうわなくとも、最勝なる念仏の真直な一筋道という意味に解釈しても差支ないと思います。兎に角如来発遣は二河白道の東岸の世尊の教である。最勝直道は西岸上の弥陀の呼び声でありましょう。矢張り東岸発遣の教と西岸招喚の道(行)とに帰命せよというのであります。随ってここに、迷行惑信、心昏識寡、悪重障多というその意は、二河譬に照して見れば、矢張り群賊悪獣に迷わされているのでないかと思う。即ち迷行惑信というのは、内には六根・六境・六識・四大・五陰に迷わされ、外には異学・異見・別解・別行の人に惑わされているのでありましょう。心昏識寡というのは水火二河に当るのでありましょう。二河の中間に白道があるけれども、この道は極めて狭小である。即ち自己の信行の力弱く頼みにならぬこと、信心の白道の極めて狭小であるということを恐れていることであろうと思います。悪重障多というのは、それに対し二河の波浪火焔の果しない恐れでないかと思います。白道は狭く水火の二河は果しがない、それだから愈々行に迷い信に惑うのじゃないかと思われるのでございます。それは畢竟ずるに群賊悪獣に惑わされているのじゃないかと思います。それは又内に自力雑善の自分の惑いが根本であろうと思います。かくの如きものは、それは皆群賊悪獣に惑わされて、二尊の招喚・発遣を仰がないからである。だからそれ等の人は一に如来発遣を仰ぐべきものであります。発遣の教は特に自力無効を明らかにして下さるのでありましょう。発遣の教の方は深く自力無効を信知せしめ、群賊悪獣の惑しより離れしめて下さる。それが如来の教法の力である。そしてその教は外にある。之に応じて内より響くものは何であるか、是れ即ち最勝直道である。特というは比較的相対的であるが、必というは必然自然の絶対を表しているのであります。「必ず最勝の直道に帰せよ」。そして「専ら斯行に奉えよ」。専は専修念仏で念々不捨、憶念不断不忘でありましょう。この行は本願力回向の大行なるが故に、法爾にこの行徳を有するのである。我等はこの事行を仰いで、「専ら斯行に奉えよ。唯斯信を崇めよ」。誠に如来の摂取不捨の真言であります。摂取不捨の故に、我等の信は成就して即得往生の現益を得るのである。だから斯行・斯信は本願・光明の回向の行・信である。大行・大信はやがて本願・光明である。大行はやがて本願力であり、大信はやがて光明力である。本願・光明の因果二力によって始めて南無阿弥陀仏の浄土を生成総持し、衆生の大行・大信を回向成就する。そしてそれは本願・光明によってであります。だから斯行・斯信というと、前にも申しますように斯というのは、何故に名号の信心が大行・大信と云われるのであるかといえば、如来の浄土を所依とする所の本願・光明二力の回向であるから、その名号に於て本願・光明の表現があるからである。だからして念仏の本願は易行であり易住であるということは何故であるかというてみると、それに於て浄土の本願・光明の回向があるということを以て、専奉斯行、唯崇斯信といって、近くは名号・信心、遠くは本願・光明を結んだのであります。総序を二大段に分つ中、以上『教行信証』六巻の大綱を叙する第一大段を終らせられまして、次の噫という処より、この本願の宗教、如来回向の行信の大道というものは、これは如来の願心を「親鸞一人がため」と感激しつつ、而もこの大道を自分一人に之を私すべきものじゃない。何故なれば、これは偏に如来の大悲回向であって、毫も自分の力ではない。毫末でも自分の力が興ったのであるならば、それは自性唯心で済まされ得よう。又他に聞かすには威を以て臨んでもいい。しかしながら「如来の教法を十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の御代官をまうしつるばかりなり、さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じひとにもおしへきかしむるばかりなり」。先ず自己の救われたる道を顕す要文を六巻の文類に述べて、滅後の衆生のに永遠に伝えて行こうというのが、第二大段の意義である。かく『教行信証』を製作せずには居れない念願をお述べになったのである。噫というのは詠歎の言葉である。一方には深く自己の宿業を痛み悲しみ、他の一方には深く弘誓の難思の強縁を歓喜慶祝して居られると思われます。こういう二つの意味を有っているこの噫という言葉から始まって、兎に角爰に文章の調子が一変して来る。

(行信の道  「38 奉行崇信」より)