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迷行惑信-2 (7/9)

次に惑信ということは『信巻』の別序に出ているのでありまして、

夫 以、獲 得 信 楽 発 起 自 如 
来 選 択 願 心、開 闡 真 心 顕 
彰 従 大 聖 矜 哀 善 巧。然 末 
代 道 俗 近 世 宗 師、沈 自 性 
唯 心 貶 浄 土 真 証、迷 定 散 
自 心 昏 金 剛 真 信。      

これが正しく信に迷う、詳しくは信・証に迷う所と思います。「自性唯心に沈んで浄土の真証を貶す」るは虚仮の証に沈溺するのであり、「定散の自心に迷うて金剛の真信に昏き」は雑毒の信に迷惑するのであります。だから「穢を捨て浄を欣ふ」ということは特に浄土門の宗とする所でありますけれども、しかし総じて仏教の旗幟とする所であります。これを突き詰めて来れば、そこに仏教の真宗が明らかになって来るのでありましょう。かくて我等は捨穢欣浄して仏法に帰しつつも、邪雑の行に迷い定散自力の信に惑うているのが多いのであります。初から捨穢欣浄しない人には行信の問題はないのであり、真摯に捨穢欣浄する人にして始めて道の問題が起って来る。「行に迷い信に惑う」新たなる問題が起って来るのであります。

次に心昏識寡、悪重障多というは更に、総じては行の法に迷い、別しては信の機に惑う。この信の問題から更に深く内観すれば、内なる我が心の底なき感情海は昏昧にして透明ならず混濁し煩悩に汚染せられ、そうして我が外なる感覚の識即ち才識智略の方便の能力は甚だすくない。即ち我等の真諦の信心は澄清明朗を欠くが為に、我等の俗諦の思想的批判力を欠き邪教邪思の誘惑に動転せられ易い。更に転じて行の方面に就て見ることになれば、徒に悪重く偶々善を知っても障多くして行動の自由がない。後の惑信に対しては心昏識寡といい、前の迷行に対して悪重障多というて順序転倒して述べてあるのであります。大行・大信を戴けば「無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ」。「願力無窮にましませば、 罪業深重もおもからず 仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず」。ああいう確りした明い境界というものが開け来るのでありましょうけれども、迷行惑信の人から見れば、自分の信を省れば「心昏く識寡く」といわなければならぬ。又真に自分の行為を省れば、愈々「悪重く障り多きもの」ということを悲しまざるを得ないのであります。これは外的には特に浄土往生人の悩みを説くと見るべきであるようだけれども、内的には真実に仏の純粋なる出世の道を求め、捨穢欣浄の願心を有っているならば、皆かの如く行信に就て深き悩みがある。智慧の悩みとなり、道徳の悩みとなり、種々になって来るのでございます。かくの如き人々に、祖聖が自分の今日の幸福に感激しつつ、苦しかりし昔の自己を顧るに就て、それに就て仏の永い間の本願を念じて、道を求めて而も得ざるであろう末代の人々に深い同情を注いで居らるるのであります。

(行信の道  「37 迷行惑信」より)