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迷行惑信-1 (7/8)

遠く本願・光明の宿縁に催されて、茲に千歳の闇室が照破せられ、深き捨穢欣浄の願心に目醒め来るというと、我々は茲に新たに行と信という実践の問題に当面して来る。そこに初めて迷行惑信という迷悶の路が始る。何を行ずべきか、如何にして信を立つべきか。かくして徒に雑行雑修に迷い定散の自心に惑うて、真実の一如の行と無二の信とを得ることが出来ぬ。捨穢欣浄の願心痛烈になればなる程、行信の迷惑が愈々深いのであります。これは『化身土巻』の終を見ますると、竊以、諸道諸教行証久廃、浄土真宗証道今盛。然諸寺釈門昏教兮不知真仮門戸、洛都儒林迷行兮無辨邪正道路。聖道門の内なる釈門僧徒達は立教開宗の教相の真義に昏くして、真仮の門戸を批判する能わず、外なる儒林は徒に現生の吉凶禍福を事として、行の正道と邪路とを辨別し明徴し得ないとあります。教というは何であろうか、それは仏教であります。仏教の大精神は何であるか、「穢を捨て浄を欣ふ」にある。その仏法の立教の大精神に昏くして、真仮の門戸を知らずして、聖道門の立場から浄土門の捨穢欣浄の教相を攻撃する。仏法の大精神は単なる個人出離得脱の道でなく、国家国民全体への祈りである。茲にこそ捨穢欣浄の大精神がある。それが明らかにならぬ為に真仮の門戸を批判出来ないからして、浄土門に対して種々の非難攻撃をするのである。勿論、法然上人のお弟子達の間にも思想的に相当ひどいものもあったろうが、しかしこれは第二段の問題であります。眼を転じて直接に政治の指導に当っている所の洛都の儒林を見るに、行に迷いて純粋出世道たる仏道と世間道たる余道との別を辨うることがなく、世間道の標準を以て純出世間道たる浄土の道を非難した。これはいってみるというと、仏法以外の道というものは、それが世間道たる立前から当然吉日良辰を選び吉凶禍福の祈願を行事として居った。聖道の諸宗は何れもこれ等の行事を取込んでいるのである。由って浄土の門に於て純粋なる仏法の道理というものを明らかにすれば、却って邪正の道を混乱して非理の非難をするということは、道の邪正に惑うているのではないかと仰せらるるのであります。

(行信の道  「37 迷行惑信」より)