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易往無人 (7/6)

次に愚鈍易往捷径、愚痴暗鈍なるものの安心して踏み往きつつある捷径直道である。これは『大経』の易往而無人の易往という一面によったのであります。捷径というのはちかみち、次にある最勝直道という言葉と同じ意味であろうと思います。この捷径という言葉は『信巻』の初に世間難信之捷径とありまして、これは易往而無人の無人という一面に対応し、又前の難信金剛信楽というに相当するものである。勿論、これは私共が金剛の信心を築き上げるには容易ならぬ自力的の苦労をしたということではないのであって、真信発獲に就ては容易ならぬ如来因位の御苦労を、本当に有難く感ずることであります。偶々信心歓ぶものが、何処までも我慢我情を張って、如来に対して疑謗の剣向けて居った過去を思い出した感銘が、或は易往無人と悲痛せられ、或は難信金剛と驚嘆されたのであります。畢竟ずるに浄土往生は畢竟成仏の道路の故に、帰命の一念に浄土は目前にある。則ち捷径というのは、本願の浄土は無為自然の境、生即無生を示す。

我々は易行といえば但称え易いことと早合点しているが、南無阿弥陀仏というは称え易いこと、六字を口でいうのはこの位のこと何の造作もないと、何でもないように思い、知らず識らずの間に法を軽しめるような気持でいうているのでありますが、造作がないという言葉の意は我々の自力の極った所、願力自然に随順するによって自然に無為自然に相応する所が易行・易往ということでありまして、願力自然の故に易行であり、無為自然の故に易往であると思います。例えば私共は自分の姿勢を直すということに就てみましても、悪い姿勢のものは長い習慣から、姿勢を悪くしている方が楽なように思える。悪い癖を続けていると段々姿勢が悪くなって行く。眠れば眠る程睡くなる。我々は眠るのが飽きるかというとそうじゃない。寝ていると始はお腹が空く、空いても我慢して寝ている方が比較的楽だということになる、遂には御飯を食べる必要もなくなる。そうすると遂には餓死してしまう、餓死してしまう方が絶対の楽だということになる。自分は先ず健全だと思っているのが常識である。それに対しその姿勢じゃいかん、下腹に力の入るようにどうして出来ぬか。下腹に力がないから腰が屈んでいる方が楽だと思うている。所がそうじゃないのであって、自分の従来の考は因果顛倒であった、成程そうだと翻然として自覚すれば、何の造作がないのであって、即座に数十年間違って居った姿勢が自然に適うようになり、自然にしていると内蔵の方も良くなる。内蔵が良くなるもんだから、今度は故意に悪くしようとしても内蔵が承知しない。そうすれば姿勢正しくしようとすることが本来の姿勢であって造作がない。易行の大道であることが始めて解ります。造作がないということは、長い期間の悪習によって本来の正しい道を行ずることの反対をやることが、普通に却って何の造作がないように思われます。しかし今や迷の夢醒めて易行の大道に立つ。これは遠くは浄土の真宗なる弘誓の強縁により、近くは大行・大信の正業・正因の回向により、外にしては宿悪を転じて宿善を成就せしめ、内にしては自我の疑迷を除去して一如の真証を証得せしめ給うからである。誠に「大聖一代の教、この徳海に如くはなし」、この功徳寶海の行信に及ぶものはない。天親菩薩の『願生偈』の功徳大寶海、即ち因円果満の一如の行体たる南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏即是其行と帰命の一念に我等衆生をして速疾に功徳の大寶海を満足せしめ下さるのであります。これこそ大聖一代の教法の大地であり、核心であり、本流である。

(行信の道  「35 易往無人」より)