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法界と衆生界との対応 (7/5)

難思弘誓度難度海大船と、船は行を譬えたのであるに対して、無礙光明破無明闇慧日というのは、慧日は信心を譬えたものであります。『大無量寿経』にも信心の智慧ということがありますが、人有信慧難と信は慧であるとし、智であるとはありません。こういう工合に弘誓と光明との二力を以て名号と信心の体験の事実を明らかにして下さると解釈が出来はしないかと思います。円融至徳嘉号転悪成徳正智、難信金剛信楽除疑獲証真理と、因位の本願に対してそこに名号を挙げ、果上の光明に応じてそこに信心を挙げて、疑を除き証を獲しむる所の真理であると顕して下されたと思うのであります。

かくして大行・大信というものは、如来の本願・光明を遠く宿縁として、今日現在に御回向下さるのである。仏界に在っては本願・光明であり、衆生の回向の世界在っては大行・大信である。仏の方からは度難度海とか破無明闇とかいい、我等の方からは転悪成徳とか除疑獲証とかいうてあるのであります。正智という智は善巧摂化の計画ということであります。智慧の念仏、信心の智慧の語を聞いて、二者同じく仏の智慧を示すものだと考うるは、恐らくは智と慧ということが明瞭でない為の混乱じゃないかと思われます。次に真理とは成程仏の光明によって、無明の闇が知らず識らず漸々に自然に、何時の間にか照し破られているから、どんな逆境というものに遇っても驚かず忍従順応することが出来、そして無上涅槃に至るという見極めがつくのが、「疑を除き証を獲しむる真理」というのであります。種々の迷信邪教の禍福の惑しにかからぬということが、つまり信心が「疑を除き証を獲しむる真理」たる所以である。貪瞋煩悩というような悪があっても恐れない。それがいってみれば、『歎異抄』の「本願を信ぜんには他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」というのは、仏の無礙の光明のお照しによって、自然に信楽の眼を開かして戴き、かく第一段の本願・光明というものに対応して出されているのである。大行は本願に、信心は光明に対応し、道理が明瞭しているのである。随って正智は正しい行智、平等公正なる指導原理ともいうべきである。故に矛盾相剋の人生に於て自在無礙に働きかけて下さる。だからその力は本願の業因によって南無阿弥陀仏の転悪成徳の行智を成就され、随ってこの大行に就て信眼が与えられ、そこに機の善悪に対する疑懼を除却して純粋一如の浄土の証を獲得せしむる所の真理が、自ら成就せしめられるのである。無礙の光明に照されて無明の闇が破らるるが故に、「疑を除き証を獲しむる真理」が自ら現れて来た所である。信心というものも畢竟、本願念仏に於ける除疑証獲の法爾の真実道なのでありまして、疑の闇が除かれて証の曙光が微かに彰れて来たのに外ならないのであります。信心とて他なし、念仏の心の二字なきを、「疑を除き証を獲しむる真理」の体験そのものであると仰せられたのでございます。

だから成程我々には本来真実の行もなく、清浄の信もあるものでありません。然るに忝くも如来の本願・光明の二力の回向によって、我々に図らざるに現に大行・大信というものを与えて戴こうとはと、誠に『願生偈』の観仏本願力遇無空過者、能令速満足功徳大宝海の意義に相当するのであります。正智というものは、願力自然の善巧摂化の妙用を説くのであります。真理というものは、無為自然の道理を示すのでありましょう。

次に爾者凡小易修真教とは、直にこの大行・大信を爾者と受けて凡小易修真教といったのであります。これは何であるかというてみるというと、凡そ大行・大信というものは、自力で称えるのでなく、信心というものも自分の力で以て疑を超えて行くというような、疑問を起して疑問を晴して自分が一の確信というものを築き上げたというようなものではないのでありまして、行信そのまま体験の教法であり伝統である。行信の道こそは正しく凡小が現に安心して修しつつある所の真実の教法であります。

(行信の道 「34 法界と衆生界との対応」より)