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光明は般若の悲母、名号は方便の慈父-2 (7/4)

そうするというと、更に之を『行巻』の御自釈を照してみまするに、
良 知 無 徳 号 慈 父 能 生 因 
闕、無 光 明 悲 母 所 生 縁 乖、
能 所 因 縁 雖 可 和 合 非 信 
心 業 識 無 到 光 明 土。真 実 
信 業 識 斯 則 為 内 因、光 明 
名 父 母 斯 則 為 外 縁、内 外 
因 縁 和 合 得 証 報 土 真 身。
この御自釈を持って来て『論』の本文を判じ、又『論註』の御釈を照してみますというと、光明・名号の父母というものは、智慧・方便の父母というのと自ら合致して来るのではないかと、ふと気付いて居るのであります。智慧というのは菩薩の如を照す所の、諸法平等の真如に達する所の根本智である。之を真・俗二諦でいえば正しく真智である。それを略して慧と名ける。方便は仮なる世界に出て来る所の後得の方便智の名で、之を略して智と名ける。茲に智という字と慧という字とは、我々は之を同じように見て一の智慧と考えて居りますけれども、これは支那の文字の上にそういう約束があるのか、或は仏法の便宜上分けて使ったのであるかははっきりいうことが出来ませんが、しかし曇鸞大師の『論註』に依るというと、慧は平等一如の根本智であり、智は差別の法を照す所の方便智であると、こういう風に釈して居られるのであります。

これは『浄土論』の離菩提障という一章の『論註』の釈文でありますが、そこに智慧ということを解釈しまして、
知 進 守 退 曰 智、知 空 無 我 
曰 慧                 
とある。慧は諸法の空無我の真理を悟るというのである。それから菩薩は一心に仏道に前進するを知ると共に二乗の涅槃に後退するを防守するを忘れない、之を智というのである、こういう風に釈してあります。智は差別の俗諦を照すのである、慧は平等の真諦を照すのである。こういう解釈は曇鸞大師が龍樹菩薩の『十住毘婆娑論』に依ってせられたのであって、勝手にそういう解釈をされたのではないと思う。それで私はこの総序の文を拝読するというと、祖聖がここに智と慧とを使い分けておいでになることを甚だ嬉しく感ずるのであります。第二段には破無明闇慧日というて智日とはいわず、それからこの第三段に移ると、円融至徳嘉号転悪成徳正智と書いて正慧といわないのである。それを私共は智も慧も同じことだと考えるからごたごたしますけれども、仏教学上固より慧というものは平等である、智は差別であると、はっきりと使い分けておいでになることは、誠に有難きことと思うのであります。だからそこらを明瞭にして来るというと、無礙光明は一如の妙理を明らかにしない所の、仏智を了せざる所の無明の闇を破る根本平等の慧日である。円融至徳嘉号は衆生の悪業海<宿業>を転じて現前に功徳海を成ずる方便の正智である。仏の光明というものは仏の自証の体である、名号というものは利他の用である。光明は仏の自証である、名号は正しく仏の救済の用である。そういう所で智と慧とが分れる。

成程、無徳号慈父能生因闕、無光明悲母所生縁乖と出て来るのでありまして、名号というと何か我々は遠い処にあるように思いますけれども、近く我等を動かす称名であるが故に、名号を通して我等の信というものが聞となり、如是我聞となるのであります。光明は悲母の如く久遠劫来静かに消極的に漸次に我我を照し守り保育し給い、名号は直接に能動的に突然として我々に命令し破邪顕正の利剣振い来る。だから難思弘誓とか無礙光明というものは、我々から見れば間接的な御縁、即ち宿善・宿縁というものである。それに対してこの円融至徳嘉号と難信金剛信楽、即ちこの大行・大信は直接に我々を救うて下さる所の、今日現前の正業・正因である。そういう風にお述べになって、故知と結論の形を以て大行・大信の徳を明らかにして下さるのじゃないかと戴けるのであります。どうも散漫のいい方をするようでありますが、まあ私の出来るだけのことをお話させて戴きます。

(行信の道  「33 光明は般若の悲母、名号は方便の慈父−−−慧日と正智」より)