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所行の体を全うじて... (7/2)

凡そ能信と所行とは体一・義別でありまして、能信に幾重もあれば所行にも之に応じて幾重もある道理で、決して所信・能信というが如き固定したる抽象概念ではなく、随って行といえば衆生の機に猶未だわたらない信以前の仏祖の教義というが如きものではなく、亦之に反して已に衆生の機にわたりたる信以後の衆生の称名というべきものでもなく、正しく衆生各ヽの機を超越して、一切衆生に平等に回施せらるべき正定業として、我等の祖先なる仏祖に伝燈し、過去・未来・現在の三世の称名の歴史は信の一念に現前現行しているのであります。所謂信心・称名同時という如きものではなく、而も亦称名をば信前とか信後とかに固定すべきものでもないのであり、且つその念仏が自己によって称えられようが、他人によりて称えられようが問う所ではないのであり、又その称える人の善悪を問わず、称うる心の所謂信・不信を論ぜず、念仏の法に就て仏願生起の本末を聞きて、唯自身が同体常住の三宝に帰して無常虚仮の人間に依らず、衷心から念仏に随喜同感出来た時の光景を、巻頭の和讃に表されたのであろうと思うのであります。過去・未来・現在の三世の称名は、それを一貫する所の本願を憶念する一念に現在し、その信は亦それの憶念する本願名号、即ち称名に具現等流せられて常に現在し、我等の純一清明なる生活を指導して、冥想的なる神秘主義的邪道に迷惑動乱せられないのである。即ち恰も針の運ぶところ縫糸が後に連続して針の運びを有効ならしむるが如く、称名本願の大道は限りなく複雑冥晦なる神秘主義的邪道を転ぜしめんが為に、自然無為に称名信心の一義から次第に無量の義を展開するが、その一々の義には称名行が直接裏づけているのであります。かくの如く称名の所行と信心の能信とは重々無尽の内的関係を有して、相互に薫習して因果の関係をなし、信は行の本源を貫徹し、行は信の最後を該摂するのであります。行・信、能・所、機・法一体にして、而も名・義明徴にして能・所の位を別にするのであります。

(行信の道  「32 所行の体を全うじて能信を生成すれば、能信全体所行を顕現す」より)