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能信の真意義-2 (7/1)

巻頭の和讃こそは最もよくこの義を明証するものであります。先ず第一句の「弥陀の名号となへつつ」は総体であり、第二句の「信心まことにうるひとは」は別義であります。この第二句の別義に第一句の総体を具して、第二句は自然に第三句の「憶念の心つねにして」を新しく展開し、更にこの第三句は第一・第二の二句の総体を具して自然に新しく第四句の「仏恩報ずるおもひあり」を展開したのであります。又『信巻』の本願三心釈を按ずれば、「弥陀の名号となへつつ」は、至心は名号を体とするを顕すのであります。「信心まことにうるひとは」は、信楽は至心を体とするを顕すのであります。「憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」の第三・四句は、欲生は信楽を体とするを顕すものであります。総体が別義を新開することは即ち総体の進展であり、本願無生の生であります。無生之生とは能生者なくして独り所生があるの謂であります。それは本願力によるが故に別に能生の自我を要せずして、法爾因縁の自在神力(所生)が成就するのであります。又別義に於て総体が行ずる時、能行者なくして所行の法自然なるを、不行而行と名くるのであります。之を浄土真実之行といい、又選択本願之行と名くるのであります。

誠に選択本願の大道には、能行者なくして自然に所行の法は純一に等流相続し、能生者なくして所生の法は自在に応化神通して尽る所がないのである。我等は具体的なる所行の法を能行に対して抽象し、能信の信を所信に対して概念化するが為に、称名行を以て一方には機上の能行とせざるを得ざると共に、他方には之を能信以前の猶未だ機にわたらざる諸仏知識の教位に置かねばならぬが如き、迂遠の解釈を用いなければならぬこととなったのであります。私が屡々陳べまするが如く、列祖の聖典には名号も称名も念仏も、共に等しく口称の行として使用されてあるのであり、茲に本願の行信の大道の面目が存在し、随って大行の名号が単なる所信の法という如き非現行的理法ではなく、名号は即ち現行なる具体的所行の称名法であり、随ってそれは挙体信に具現するものであります。若し行が単に所信という如き単なる教理ならば、信は純粋なる能信でなくして、能行でなければならぬ道理であります。或る先覚者は、強いて能行といえばそれは信でなければならぬといわれましたが、この本願の行から能行の概念を除去せんと欲するの余り、能行の概念を且く信に転入したのであって、これは一種の反語に過ぎないことと思います。

しかしながら我々は本願の信を以て、口には能信といいつつ、知らず識らずに之を能行として居りはしないかと思います。巻頭和讃の「弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは「」と、率直なる称名信心の表白に接して、誰かこの称名の六字を単なる信以前の仏祖の所信の教義と見ることが出来よう。是れ正しく現実事行の所行さながらの表現でなくしてなんでありましょうぞ。是れ誠に仏祖伝統の称名本願の大行であって、勿体なくも自己も「至心信楽己を忘れて速に無行不成の願海に帰」せしめられていたことの不可思議を慶喜し、奉讃せずにはいられないのであります。

(行信の道  「31 能信の真意義」より)