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能信の真意義-1 (6/30)

已上、大体に於て行信の大道としての所行・能信の不離不二の立体的関係の大要を陳べ得たと存じます。人は多く所行の義のみを難解とし能信の義を自明の如く思うようであるが、実は信に所信や能行の思想が知らず識らずの裡に混雑するが為に、純粋能信の意義が明瞭を欠くが為に、その信に就ての陰影を行の上に投影して、行に所信・能行の挟雑物を見るのでないかと思います。これは畢竟、本願の行信の大道を明微にせず、自力の信行の常識道と混雑するが為ではないか。

抑ヽ称名の大行は本願の総体であり、帰命の大信は本願の別義であります。乃ち称えよ助けんとあるのは、先ず本願の象徴なる名号の総体を挙げて遍く十方衆生に回向し給う相であり、我をたのめ救わんということは、この名号に於て象徴する本願の別義を衆生が内観する相である。これを『御文』三帖目初通に就て見るに、「夫一流の安心をとるといふも、何のやうもなくただ一すぢに阿弥陀如来をふかくたのみ奉るばかりなり」と初に略説し、次で之を二方面から広説せんと欲して先ず二問を挙げ、「しかれどもこの阿弥陀仏と申は、いかなるほとけぞ(第一法の問題)、又いかやうなる機の衆生をすくひたまふぞ(第二機の問題)といふに」と問い、次でこの第一の法の問題に答えて本為凡夫の本願を明らかにし、次に第二の機の問題に答えて一念帰命の信心を明らかにして居られる。これは法と機との二問題は次第の如く総体・別義の関係を示すものであり、只今の行・信の問題であります。即ち大行とは総じて阿弥陀如来とは何ぞやということを明らかにし、大信とは別して如何なる衆生が救わるべきやということを明らかにするものであります。この行・信、総・別、体・義は内面的必然の関係を有し、総体を挙げて別義を展開すれば別義は則ち総体を具足して、更に別義を展転開顕して極る所を知らぬのであります。総体は内に限りなく別義を新しく展開しつつ、而も自体別義を超越して常に三昧に安住し、一切別義を摂取憶念し不散不失ならしむるのであります。又別義は各自新たに生ずるに随いてそれに於て総体を現行し、総体をして拡張充実せしめて已むことなく、常に新生命を持続せしめるのであります。それ故に別義の展開は永遠に極りなく、その連続は決して分段的結合的理論の連鎖体系ではなく、即ち自我的業道自然の邪道ではなく、誠に一如的願力自然の正真道であります。

(行信の道  「31 能信の真意義」より)