表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

自力他力は一に信の機に在り-2 (6/29)

又已に能行という限りは著しく称名に機の色彩を帯び、内的には願力自然の自証としての一心帰命の感情は否定せられ、随って外的には無為自然の自証としての自力無効の感情は全く影を潜めることになろう。已に覚如上人の『本願鈔』に『信巻』の真実信心必具名号を釈して、「摂取のちからにて名号をのづからとなへらるるなり」と述べて、信心の念仏の願力自然に随順し無為自然に相応してとなへらるる、即ちこの称名は所称であり所行であると顕し、之に対して名号必不具願力信心を釈して「名号となへて、この名号(称名といわずして名号という)の功力をもて浄土に往生せんとおもふ」と述べ、自力心の称名を以て能行と名くべき意図を示されてある。

則ち行信の大道に於ては、名を称うるは名が称えらるるなる所の純粋現行を顕す言葉であって、決して称える能称能行の能を示すものでなく、『行巻』の他力章に於て言他力者如来本願力也と釈し、次で『論註』の『浄土論』の本願力の釈文を引用し、譬如阿修羅琴雖無鼓者而音曲自然の『註』の譬喩を引用してあるが、阿修羅琴が能鼓者なくして所皷の音曲自然なるが如く、如来の現在の光明威神の他力というものも、特に能起能現の作為あるに非ず、如来は常に大寂三昧に静かに住し給うのであります。全く無為自然の所現であるがその本は本願力である。阿修羅の琴は業道自然による所の所謂純粋自我の無明の所為であるが、之を譬喩として如来の本願力によりて能作者なくして所作の事が自然なるを示したものである。

誠に本願力によるが故に、能行なくして所行の事が無為に成就すと示すが、行信の大義である。かくの如くしてこの純粋現行なる所行の称名の法に就て、始めて大信は一切の作為的能行的祈願心ではなく、又所信の境界的なる所謂自我の概念的心境とか、自我的信念即ち自信力とか、律法的信条とかいうべき不純雑駁なる定散自力の域を超脱して、純一無雑の無二無礙の能信の信たるを得るのであります。能信の信とは所信の定心や能行の散心の自力信に対する本願回向の信の独自の義であります。即ち行に於ける能が定散自力の妄執を示すに対して、信に於ける能こそは絶対帰命の信のみが我等衆生に与えられたる本能であり唯一の権能であることを自証せしめ、之によって無限なる大行の内面的眼界を顕示して、衆生をして名号を念持するの契機を成立せしむるのであります。誠に我等に於て信のみが能なることを示すことによりて行が全く所なるを顕し、行の全く所なるに於て如来の大行力を反顕すると共に、信の能なるに於て衆生の自力無効を反顕するのであります。

(行信の道  「30 自力他力は一に信の機に在り」より)