表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

自力他力は一に信の機に在り-1 (6/28)

全体、行信の大道に於ては、行に自力・他力の別はないのであり、自力・他力の別を生ずるのは信ずる機の純・不純によるとせらるるのであって、この道理の不明瞭の為に、念仏の上に自力と他力とがあるように思うのであります。念仏は固より如来の本願力回向の法でありまして、人間の信・不信を超えて真如一実の功徳宝海であります。自力・他力は信に在って行に在らざる所であります。自力念仏・他力念仏というは念仏の法そのものの区別でなく、之に於ける信の純・不純にあるのであります。私共はこの一事に深く明らかに反省すべきであります。

それ故に『行巻』の御自釈には、『往生論註』に

彼 無 礙 光 如 来 名 号 能 破 
衆 生 一 切 無 明 能 満 衆 生 
一 切 志 願             

という文の名号名号の語を称名の字に改変し、
同一の文を祖聖の私の語として陳べてありま
す。又『信巻』の

真 実 信 心 必 具 名 号、 名 号
必 不 具 願 力 信 心       

とある文の名号の語が称名の義であることは、存覚上人の釈に依るも明瞭なことであります。随って、『正信偈』の本願名号正定業、至心信楽願為因とあるもこの名号は即ち称名であります。私共は所行の名号を以て徒に形而上学的実在とすべきでなく、純粋現行とするが行信の大道であります。それが三国七高僧の伝燈の教行であり、而して特に法然上人の選択本願の真宗であります。信は行に批判さるべきであって行を批判すべきではありません。行は絶対にして何ものにも批判せられません。信は行に批判せられるによりて能く証を批判することを得るというのが、行信の大道であります。是れ即ち巻頭和讃の第一句に、絶対無条件に本願念仏の大行を機の信・不信を超えて高揚し、次に第二句に始めて「信心まことにうるひとは」と、機・法二種の深信を顕し、真実なる信心は純粋なる能信であって、決して能行ではなく、即ち無礙無慮に如来の願力に帰して全く自力無効の信知であります。行に能行を立つるは、自然に信に能行の根源力を認めることになるのでなかろうか。

(行信の道  「30 自力他力は一に信の機に在り」より)