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称名所行による行信道の意義-2 (6/27)

茲に私は所信の法ということと所行の法ということに就き、今少し考えてみたいと思います。単に所信の法という時には、行者と対立し概念せられた法であって、行者から遊離し、何等の生命も力もなき形式的教条という如きものでありましょう。随って之に対する能信の信というものも、単に考えられたる信条という如きものとなり、この二者は二の概念として対立し永遠に具体的なる行信とならぬであろう。然るに所行の法という時は現在に行動している所の法であり、今現に行ぜられつつある法であります。純粋なる法は必ず所行であり、純粋なる所行のみ法であって、能行は存覚上人の『六要鈔』<『信巻』>には称名之人という語があって、能行は厳格の意義に於て能行者たる人であって法ではありませぬ。南無阿弥陀仏の名号は南無の二字を主にすれば因位の本願であって憶念の念仏というべく、又阿弥陀仏の四字を主にすれば果上の光明であって讃嘆の称名というべきであります。我等の常識的見解には憶念の念仏のみを以て所行の法体とし、讃嘆の称名を以て能行の行業と思惟するのでありますが、これは行信の大道に於て一段の内観を要する所でないかと思います。

『行巻』の大義を最も簡単に示すものは巻頭の和讃の「弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」の一首であります。この和讃の初の二句は行・信と次第して、而もその行は称名行であります。我等の常識には全く前後転倒して容易に領解し難き所であります。我等の常識は寧ろ反対に信を以て所信の境とし、行を以て能行の態度としているようであります。かくの如き立場では到底この巻頭和讃が示す所の所行の大道を領解し難いと存じます。行信の大道に於ては名号と称名と念仏と三者同一でありまして、あらゆる聖典に於て区別されてないのであります。三者の中独り名号のみ所行の法体であり、称名は勿論念仏も亦機上の行業の故に能行であるとするは、常識上誠に当然のようであるが、茲には知らず識らずの間に理知の分別が加っているのでないかと思う。本願力回向の故に名号は即ち称名であり、称名は即ち念仏であり、念仏は即ち名号であります。三者同一なる所行法の三義であります。即ち念仏は因位の名であり、称名は果位の名であり、名号は因・果二位に通ずる名であります。光明は如来の身業であり、寿命は如来の意業なるに対して、名号は如来の語業であります。故に名号を亦名声ともいうてあります。即ち六字の名号は諸法平等、因果一如の理を衆生に証知せしめ、転迷開悟の為の如来の本願を易く憶念執持<念持>し得べき名号を思惟し、この名号を称えるものをたすけんと誓約し給えるものであります。然るに私共は単に未だ衆生の機にわたらざる以前の如来の御手許にある名号なるものを想定し、之のみを以て所行として、本願の念仏の念を以て特に称念の義となし、憶念を以て信心にして行に非ずとなし、随って称名と念仏との体の同なるを以て義位の別をも無視するに至ったことは、甚だ悲しむべきことである。

(行信の道  「29 称名所行による行信道の意義」より)