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称名所行による行信道の意義-1 (6/26)

それ故に『教行信証』の『行巻』には大行の体を以て称名とし、特に称無礙光如来名と詳説し、如来果上の光明の徳を名号に就て諸仏が称揚するの意義なるを明らかにせられました。第十八願の十方衆生は因の名であり、第十七願の十方諸仏は果の名であります。因なる本願を念ずる信の主体としては衆生と呼ばれ、果上の光明を称する行の主体としては諸仏と名けらるる。諸仏は説き教うる位であり、衆生は聞き承ける位である。而も諸仏は応化の仮位であり、衆生は業報の真位であります。故に第十七・第十八の二願は所行の位と能信の位と全く不離不二の関係を有するものであります。真実教に於ける善知識はその位に於ては諸仏と呼ばれ、即ち諸仏と同等と称せられ、正しく弥陀の応化たる位であるが、その内面的自証に於て自ら実業の凡夫であることを、その信位を示す第十八願が語っているのであります。

全体、我々の常識に随えば、何処までも信・行の次第でありまして、かかる信は信仰とか信念とかいわれ、寧ろ所信の境界を顕す語であり、行こそ行為とか行業とか作為とかの意義であって、寧ろ我等如何に為すべきかという能行を顕すものであります。茲に信が理念化し、行が律法化する所以であります。今之に対して所行の法に対する能行の信なく、能信の信に対する所信の行なきことを顕して、所行の法を全うじて我等をして能信の信を成就せしめ、この能信の信を全うじて所行の法に帰入せしむるのであります。

(行信の道  「29 称名所行による行信道の意義」より)