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所行の法と能信の機 (6/25)

そうして置きまして、ここに名号と信心というものが出て居ります。存覚上人の『六要鈔』に依ってみるに、行は是れ所行法、信は是れ能信心といい、或は行信能所機法一也という。所で所行というものはどういうものであろうか。従来一般の宗学者は行というものは、能信の信心に対して所信・所行の法体である、こういう工合に見てありますが、所信の行に就て所行の法体に対して亦能行というものがある。能行とは機中の法の用であって、信後相続の称名である。これは『行巻』所引の聖教の大部分はこの衆生を正定業するものであるが、『行巻』に出す限り諸仏讃嘆の教法であって、所行の法体の徳用を顕すものであり、衆生の機上に在るものでなく故に、能行と雖も所信としては所行に摂するというのであって、先徳苦労の功は深く感謝すべきであると思う。

しかしながら所行の名は存覚上人の始めて用いられたる所であるが、能行の名は列祖の未だ用いられざりし所であって、後世宗学の勃興以来この名が用いらるるに至ったのであります。即ち伝灯七祖及び祖聖の御遺教の上には所行の名さえ見えないのでありまして、況んや能行の名などは全く無かったのであります。存覚上人の行を所行の法と仰せられましたのは能信の信に対しての語であって、能行の行というに対する所行の行ではないのであります。即ち後世宗学者の所謂能行と呼ぶ所の衆生の称名を以て、存覚上人は之を能信の信に対して所行と名けられたのである。即ち存覚上人に在っては、行を所信の法と名けず、之を所行の法と呼び給うたのであります。

我々は能信の信に対するものを所信であると考えているが、存覚上人は正しく能信に対する所の法を所信と呼ばずして之を特に所行と呼び、所謂所信は正しく教であって、行は之を称名せよという諸仏の教とすれば固より一往教に摂めて所信と名くべきであろうが、本願真宗の教には最も不可思議にして特自の教体というものがあって、決して形式的なる教ではないのであります。『大無量寿経』に就て『教行信証』には、説如来本願為経宗致、即以仏名号為経体と真実教の独自の宗致と体とを明らかにし、次で大行の体を出して称無礙光如来名となし、従来念仏往生之願と呼ばれ、具に信(三信)・行(十念)を誓える根本本願たる第十八願を以て、願成就の聞是名号信心歓喜乃至一念の経文によって、深き己証を開いて本願信心願の名を感得し、念仏往生の選択の正因の、深く遠き如来の因位永劫修行の内面的歴史を内観し、衆生の宿業と如来の本願との内的必然関係の具体的事実を永劫の御修行の上に見出され、何故に称名が念仏と云わるるか、何故に唱名と云わずして称名と云わるるか、これ等の重要の問題は、真実教の体たる仏の名号という一事に係りていることを『行』・『信』二巻に明らかにせられたのであります。

乃ち真実教に於ける大行が唱題の如く唱名と云わずして称名と呼ばれ、又それが念仏と云わるる所以のものは、源、如来の第十七・第十八の本願に由来する所であります。即ち念仏の念は本より憶念の義であって憶持、念持、摂持、執持、摂取、不忘不捨の意であります。又称名の称は称揚、称讃、称嘆、咨嗟、称量、称計の意であります。即ち念仏は如来の本願を名号に就て憶念執持して不忘不失なる意味であり、称名は如来正覚の光明の果徳を名号に就て称讃し称計するの意味であります。即ち因にありては念仏というべく、果にありては称名というべきであります。故に正しく如来の因位の願心を開顕する所の第十八願には衆生の念仏を往生の正業・正因と誓い、果上の正覚の大行開明する所の第十七願には諸仏の称名を誓い給うのであって、念と称とは固より南無阿弥陀仏に於て一体でありますけれども、因位の本願と果上の光明とその義を異にするものであります。

(行信の道  「28 所行の法と能信の機」より)