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行信道の由来-2 (6/24)

僅かの言葉違いでありますが、奉斯行ということ、普通なら行じ奉るとか奉え行ずるということでしょう。それを「斯の行に奉へよ」というのは称名の大行に奉事することであり、その称名の大行に奉えるというということは、全身を捧げて恒時に恭しく奉事することであります。次に崇斯信というは、自分の戴いた念仏の信心を崇敬礼拝せよと、全体自分の称える称名に助けられ、随って又その念仏を信ずる信心に救われるということは、如何にも不可思議の道理である。先ず教は彼方の善知識に在る。行は我が方に貰ったものであると或人はいい、教・行共に彼方にあると或人はいう。唯信と証とだけは我が方へ来るのだが、証は未来に戴く故に現在は信のみである。但し本願回向の信・証は因果の位の別であって体の別ではない、故に臨終捨命の一念に法爾に転信得証するのであります。即ち奉斯行とは正しく如来回向の称名の大行に対する敬虔の態度を象徴し、崇斯信とはその称名憶念する心の純一無雑の姿を如是に顕彰するものであります。かかる微妙なる表現は容易ならぬ所であり、誠に本願の宗教、行信の大道の歴史的偉観であります。

それで私は茲に戴くということに就て、世に所謂貰う並に取るに対して少しく語りたいと思います。會て私の友は月給を貰うと思うのは乞食式であり、月給を取ると思うのは泥棒式である。取ると云えば高慢に見え、貰うと云えば卑劣に見ゆるが、畢竟五十歩百歩である。今は何れでもないのです。戴くのである。この戴くという心持が奉行崇信ということに当るのであります。他力回向という道理は、つまり云えば、有難いというて戴くこと。他力回向ということは別段の教理であるなどというかも知れんけれども、要するに心から報恩謝徳の念を以て有難いと仏の前に頭がさがる道理、法の前に自力無効と機の頭がさがる、法を機が戴くのであると、こういうことになる。それが他力回向の道理である。回向ということは理屈でも何でもない。唯我々が本当に有難いという所、知恩報徳の知恩という道理が有難いという感情でしょう。報恩の根本にはどうしても知恩ということがありましょう。「釈迦・弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」。信心の智慧というのは知恩のことです。唯この知恩によってこそ仏恩報ずる身となる。仏恩の深重なることを信知してこそ報恩の行を智慧の念仏と呼ぶのである。如来は智・断・恩の三徳有っておいでになるが、我々が直に感ずるのは恩徳であります。他力というのは恩徳の感知の表明であります。仏恩の深広なるを知るのでありましょう。それ以外には何もないでしょう。言葉だけ扱うてみれば、教理を組織することもございましょうけれども、教理を組織するということが目的ではないのでありましょう。

(行信の道  「27 行信道の由来」より)