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行信道の由来-1 (6/23)

総序五段中、第一段は先ず『大経』の真実宗致たる本願・光明を標挙して衆生解脱の重要問題を提出した。これは問題である。第二段はその問題を解く所の真実契機をここに顕した。機というものを通して第一段の問題を解決せんとした。それを今この第三段に来って行・信の体験に帰し、正しく生死解脱の問題を解答する。故知と表示して遂に奉行崇信を勧むるはこの所以であります。このように見て来れば、最初に難思弘誓度難度海大船、無礙光明破無明闇恵日と大宗を標示するは、一往最後の結論を最初に揚げたようだけれども、そうではなくして、この宗要は言は簡にして而も義は深く本願に徹し広く果海を覆うている、随ってこれは却って一層大問題である。その大問題を第二段の契機によって、それを通して一箇の体験に帰一し得た。つまり第一段の問題自身の中にその解答はあるのでありますが、その問題の中にある解答、それをここに明瞭に開顕したのである。だから故知と先ず明快なる決意を表示し、行信の道を開顕して遂に奉行崇信の勧励を以て正しくこの一段を結ぶと共に、併せて全三段を総結したのであります。茲に本願の宗教は行信の大道として始めて具体化せられ、易行の直道として遠く五劫思惟の本願に対応し、近く無礙の光明裡神通応化せしめて戴くのであります。これが正しく『教行信証』一部六巻の大綱であります。

時にここに名号と信心とを挙げて、之に於て直に衆生の行信を発見し、今更に衆生の行信を勧めずして、唯専ら奉崇を励まして奉斯行崇斯信と結勧してあるが、普通ならば順序と読方を変えて

奉 行 斯 易 修 真 教 崇 信 斯 易 往 捷 径

というべき所であるけれども、今のようなお勧めの方が甚だ有難いと思うのです。抑ヽ称名念仏の行は即ち信が純粋なる所行の法である。信は純粋なる能信の心である。それを奉斯行崇斯信というような言葉で以て、我々がどこまでも大行をも大信をも毫も私しない、全く如来に捧げるという滅私奉公の態度が戴くという言葉であります。有難いと大行を戴き信心を戴く。戴くということは、本来あなたの御ものを本来のあなた方へ心からお返しすることである。有難うございますと、誠に御勿体ないと戴くということは、自分に私せずにそのまま如来に返すということである。而してそのままに向うに返すということは、本当に己を忘れて受取っているということの自証である。

戴くということには限りない大きな円が描かれている。我が身は助かるまじきいたずらもの、かかる大行・大信誠に勿体ないことだと、そのまま方向転換して向うさまへお返しする所に、何といいますか、我が身心挙げて行信なることが自証される。所謂貰った以上我が物だからしっかり握って居ろう、握って居らんければ安心のならぬというようなものは固より無なるものです。後生大事に握っているものは、手を開いてみるととたんに何もなくなる。それは結局固から何もなかったものを握って居ったのだというと同一である。あらゆる私の持物を皆そのままにあなたへお返しする。お返しするということは、回り回って、限りなく大回りして復遂に自分に回向し来ることでありますが、さりとて之を予想してお返しをするのは自力の回向であります。

(行信の道  「27 行信道の由来」より)