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逆謗の摂取と抑止-2 (6/22)

だから深く求めてみれば、本当の如来の精神というものは、その除かれる所の、除かるべき所の五逆と誹謗正法とを、さるべき業縁の催せば何時犯すやも計られぬもの、仮いそれを犯しても、誠に申訳ないと自分の絶対無力を本当に深く自覚さして戴いたそのものは、矢張り如来の大悲は之を摂取し給うのであります。

しかしながら何故、抑止文というものを置かれたかといいますというと、これは実者の理知的邪見を誡められたのである。邪見は仏法を正信しない、邪見は寧ろ邪教を迷信するの機であって、因縁因果の正しき道理を聞思し得ない。自我を建てて因果の正道を否定する邪見は正信を礙げるものであります。如来の本願が広大無辺だからというて、悪為すべしと独断する。そういうのは邪見の害毒であります。邪なる見解でありまして、それは仏法の道を礙げ、仏法の正信を礙げる所のものでありましょう。五逆・謗法は邪見に由るのである。已に妙法の霊薬あり、機の悪・逆の毒物好むべし、かかる論理を以て却って毒を奨励するということは、本当に病気の苦しさを知らず、為に薬の有難さが身に沁まぬから、却って毒を好むようになる。是れ世に思想上の偏見邪見の特に恐るべき所以であります。今日、思想問題というものは畢竟、この邪見の深大の根本的害毒を防止する所にあるのであります。逆・謗・闡提ということそのことよりも、それ等の由来する所の邪見邪思想そのものの根本的害毒を恐るるが為であります。大体から見れば、西洋の思想は自我主義であり、所謂実人生の理想的主体たる自我を超越立場とする所の自我主体なるものは、仏教から見れば、表面は邪見でなくとも一切邪見の根源でありましょう。これ等の罪を思い知らせんが為に、抑止の文というものをお加えになったのである。欲恵ということは釈尊御出世の本懐であり、正に逆・謗・闡提を恵まんとする為に此世に出られたのである。逆謗闡提回心皆往の旨を明らかにせんが為に、釈尊が現れて下されたのである。だから釈尊出世の本懐を欲という一字に表して下されたのでありましょう。これは浄土の機縁、正しく浄土の教が人間の歴史的事実というものになりまして、始めて仏法が現実に働き、事実として我々を救うて下さる、それを機と名けるのです。それを機として、その機に応じて法の力が現れて下される。だから機ということを述べます時には、凡夫ということを顕すのでありましょう。一寸考えると善機とか悪機とかいうことを、我々は善とか悪とかいうことを非常に喧しく注意してしていますが、結局凡夫の問題となりましょう。本当の仏法の教から申しますれば、十方衆生といえば無論そこに権化の聖者も実業の凡夫も等しく摂め取って下さると申しますけれども、聖者などと申す御方は、大体に実者なく悉く権者であります。祖聖は真宗の祖師として斉しく聖者として仰がれて居ります。龍樹大士とか天親菩薩とかは聖者として崇められて居り、曇鸞大師も曇鸞菩薩というて、これ亦聖者として崇められて居ります。七高僧皆聖者である。祖聖はこの七高僧にも勝った聖者であらせられると崇めていますが、それは皆如来の本願、苦悩の群生を身を以て、唯言葉だけではなしに自分の全身を以て本願を体験して、我等を導いて下さる。そういう所が権者として帰依せしめられる所以でないかと思います。私は惟うに、権者こそ絶対の善人と絶対の悪人とを示現して、相対的善人と相対的悪人、即ち善悪の凡夫の実者を如来の本願に方便引入せしめ給うのであります。

(行信の道  「26 逆謗の摂取と抑止」より)