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絶対の善人悪人は権者 (6/20)

然からば古来真の国の歴史上には、絶対の善人だの絶対の悪人だのは決して無いのであります。一体、善人とか悪人とかいうものも、共に是れ凡夫なる限り相対的なものであります。随って絶対の善人・絶対の悪人という如きは、唯権化の聖人にのみ存在するのであります。然るに外国の歴史には、絶対の善人や悪人が現れて来るけれども、それは皆理想主義の形式概念の実体化偶像化でありましょう。実際上そんなものがあるのではないのであります。日本の国にも古来邪教がありまして、自ら神さまであるなどというものが時々出て来る。抑ヽ我が国に於て神さまという御方々は、多くは後世から敬うて申すのでありまして、自ら神さまであるなどと名乗るということは、日本の国体では絶対に無い筈である。固より明徴なる日の本の国である。臣民にして各自にこの国体観念を明徴にして置く限り、かかる迷いの起ることはないのだけれども、国体観念が少しでも不明徴であるというと、悪霊がその機に乗じて躍り出て来るのであります。外国は初から明瞭な国体が無いのであるから、随って正しい歴史が成立しないから、その歴史に聖人も悪魔も沢山あるのでありましょう。聖人と悪魔というものは、天才と気違いのようなものでそれは兄弟である、そういうものでないかと思います。

斯乃の斯というのは実業の凡夫。調達・阿闍世・釈迦・韋提は斯乃権化仁斉救済苦悩群萠とある。お釈迦さまは暫く除きましょう。斯乃権化仁、本当に煩悩に悩み罪に泣く、内面的にも外面的にも悩まされ、そうして悩み悩んで真実に手も足も出ない。本当に力も何も無いその凡夫であります。その凡夫が即ち仏法の歴史には権化仁、それが仏法の力により転悪成徳して、そのまま尊くなるのであります。同一の道理を以て日本人は皆国体の威力により、歴史的に転悪成徳して神さまに成して戴けるのである、又仏さまに成れるのである。凡夫だからして道と法との御力によって神に成れるのです、又仏に成れるのです。自分の徳で成れるんじゃない。凡夫だからこそ本当に無上仏に成させて戴けるのは、此方の力で成るのじゃない、道の力で成さして戴けるのです。故に権化仁とは、等しく平等に煩悩と業との為に苦しみ悩まされ、宿業に悩まされている所の、名もなき雑草の如き群萠、即ち衆生の凡夫であります。今日の学者がいうような人格などというものではない。唯衆生であり、群萠であり、群生である。恰ももやしの群のようなもの、自然の大地からもやしが出て来るようなものです。万物の霊長とか人格の尊厳とか、そういうものは我等にはないのであります。自ら誇る所の道徳、自ら主張すべき権利、絶対尊厳の自我とか唯一実在の人格とか、そういうものは実は全く存在しないのであります。

仏法は無我なり。無我の教というものは凡夫という所にあるのであります。

仏教は無我なりということは、仏教は凡夫の教じゃということであります。

凡夫ということに本当に徹底した人が、真の聖者と称せられるのであります。それをば権化仁というのであります。だから祖聖は浄土からおいでになった、ただびとではない。ただびととはどんなことか、凡夫のことです。我々の凡夫というのは自己弁護の為の凡夫だから、天狗のようになったものをいう。そういうものが俗にただびとといわれるものです。その鼻の折れた人が、それが本当のただびと、凡夫であります。だから愚禿親鸞がつまり親鸞聖人と称せらるるのであります。愚禿と仰せられるから聖人というのは間違うている、愚禿といえばいいのじゃというかも知れませんが、自ら愚禿と謙下するお方に此方は頭があがらんのです。崇めざるを得ないわけでありましょう。それこそ権化仁という。「彌陀・釈迦方便して 阿難・目連・富樓那・韋提 達多・闍王・頻婆娑羅 耆婆・月光・行雨等」「大聖おのおのもろともに 凡愚底下のつみひとを 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり」。皆権化仁として拝されるのであります。而してこれ等権者の歴史的使命は、斉
救済苦悩群萠に存するのであります。

(行信の道  「25 絶対の善人悪人は権者にして実者に非ず」より。「行信之道」は昭和13年5・6・7月の講話が昭和15年4月に本として出版されたものであり、文中の言葉に今では不適切とされているものがありますが、そのまま掲載します)